リストやメンデルスゾーンが夏の音楽祭に奔走している間、ショパンは静かなノアンで黙々と作曲の筆を走らせていた。ショパンはベートーヴェン記念碑の式典の幕引き係を断った経緯もあるが、リストの罠に嵌められないように生き延びる道を選んだ自分を後悔はしていなかった。ショパンは強いものに巻かれず決して自分を曲げはしなかった。
ノアンで部屋からほとんど出ないショパンはワルシャワの家族へ書簡を書くことが心の支えであり、時々、ソランジュと犬のジャックとほろ馬車でドライブすることぐらいが唯一の息抜きであった。
ワルシャワの家族へ5日間かけて書いている書簡もそろそろまとめに入り送りたいところであった。5日目であろうか。。。
「・・・ひげは剃ったけど顔は太ってはいません。
しかし、体重が増えたと言われます。でも、僕は決して故オコロウに似ていないのだ。
故オコロウの義理の姉によろしくお伝えください。
僕の記憶が間違っていなければ、僕はミオドワ通り[現在のワルシャワの旧市街。クラクフのカジミェシュ地区の通りの名前]でよく二重奏をしていた。そこで、僕はミハリナ・ツァイコフスカ嬢と頻繁に会っていたことがある。」
フレデリックは姉ルドヴィカにワルシャワにいた頃の1830年の頃の話を記憶を辿るようにした。ツァイコフスカ嬢はポーランドで1836年にマズルカなどを出版していた。
恐らくは、フレデリックは自身を革命家だと宣言して以来、自分を曲げずに生きて来たが、ポーランドに帰れない自分に行詰まりを感じていた。リストや、メンデルスゾーンや、ポーリーヌ、フランショームはワルシャワで演奏活動が出来るというのに、フレデリックは自分の故郷だと言うのに、ワルシャワを出て以来、一度も故郷で演奏が出来ないのだ。
アメリカに行ったフォンタナを追ってアメリカへ行く望みも叶わないフレデリックだった。フォンタナと交わした約束は「いずれは一緒にポーランドに帰りたい。」だった。
フレデリックはワルシャワ時代の友人の伝をひとりでも辿って、家族も自分も助かる方法を考えていた。
「・・・あなた(ルドヴィカ)の子供たちがどうしているか僕に知らせてください。
ブルシャク家(マリアンナ・スカルジンスキはアレクサンドラ・プルシャックの妻でルドヴィカの友人、その子供のアレクサンドルとコンスタンティはショパンの学友だった。)に
僕の愛を与えます。よろしく伝えてください。。
僕はすぐに再びあなたにまた書くと思います。あなたに私の愛を送ります。僕は 書きたい
ことがたくさんあります。
僕の隣の部屋で、僕たちがチョコレートを飲んで話をしたときように、何から話したらいいかわかりませんが、あなたと積る話をしたいです。あなたに心からの敬意を表します。
僕の良き友人のフランショームはあなたに覚えておいてほしいと手紙に書いて来ました。 。 。 。」
フレデリックは昨年のように姉ルドヴィカに本当は会って話がしたかったのだ。
最後に、続いてサンドが一筆書いた。
「サンドの追伸、お元気ですか? 私たちはあなたを愛してます。
あなたを抱きしめ、いつもあなたを祝福するように神様に祈っています。」
そして、最後にフレデリックが再び書いた。
「サンド夫人はこの手紙を一行も書きたがりません。
彼ら(サンドやソランジュと使用人)は このように親愛なる人たちです。(僕は、このノアンで、サンドとサンドの子供と使用人だけと関わることがすべての生活であるため、〈彼ら〉という言葉で書きました。)」
サンドは、社交辞令的な挨拶だけで、この時はルドヴィカへ丁寧な文章は書かなかった。サンドはこの年はルドヴィカがお金が足りなくてノアンに来なかったため、ルドヴィカからお金を貰えなかったのだ。
1年前の夏は、サンドはショパンの世話をしていることを理由に、ルドヴィカからお土産やお金を貰ったのだ。それで、フレデリックは、今はノアンでは最低5人から6人プラス、純血種の大型犬のジャックの餌代、これだけの生活費がかかるのです。。。とルドヴィカにそれとなく伝えたかったのだ。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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