F.CHOPIN、パリから姉ルドヴィカへ心配しないでください,そのつづき。

前回つづき

ショパンはパリのアパルトマンで}ワルシャワの家族へ書簡を毎日の日記のように書きつづけていた。

フレデリックは、ワルシャワの家族へパリでの自分が元気でいることをつぶさに書き続けた。。。

ショパンはレッスンをする場所を工房と称し、

富豪ロスチャイルド家のご夫人にレッスンをして差し上げていたショパンだった。

今日は自分のすることを優先してロスチャイルド夫人のレッスンを中止したショパン。

ショパンの新しい「マズルカ作品59」は、ベルリンのシュテルンで出版されたのです。

姉ルドヴィカのいるワルシャワに楽譜はライプチッヒからくるため、

この新しい楽譜が家族のもとへ届くかどうかは分からないと心配なショパンなのだ。

この曲はだれにも献呈したくないものですと

姉ルドヴィカに書き記すショパン。

ショパンはチェロソナタ・バルカローレそして幻想ポロネーズを仕上げておきたいので

レッスンを断っているのであるが、

レッスンをしてほしい多くの依頼があることで、

作品の完成があやしく感じているショパン、

レッスンは、報酬であり作品は自らの残せる遺産であることを

芸術家ショパンが、家族にあかしている。

演奏会を開かないのかと問い合わせがくるが、

自分は疑問であることと、とても多くの力が作用していることにショパンは

困惑しているようであった。

リストがショパンの留守中に地方での演奏会の帰りにショパンのアパルトマンに

寄ったと名刺を扉に差し込んで行ったこと、

マイヤベーヤがパリに帰って来てレオの音楽夜会で会うことになっているのだが

サンドが新作バレエの四人の悪魔に行くことしたので自分もそれに行くことになってしまったことショパンの周囲の人びとがこのように

ぐるぐると回っていることを姉に告げている。

この書簡をショパンは、バレエを観た翌朝日曜に書いている。

このバレエはルドヴィカとパリで一緒に観たものと同じものでした。

そして、

十二月十七日にこの書簡は再会された。

ショパンは忙しくて時間がなかったのだ、

パリの天気がものすごく陰鬱である、グランド・オペラでバルフの新作オペラを観る

「ハイモンの四人の子供」というオペラはルドヴィカとオペラコミックで観たことを

ショパンは懐かしく思っていた。


マイケル・ウィリアム・バルフ( 1808年5月15日 - 1870年10月20日)

アイルランドの作曲家。オペラ「ボヘミアの少女」で最も知られる。

ヴァイオリニストの後、オペラ歌唱、同時に作曲を開始。40年のキャリアの中で、38のオペラと約250曲の歌曲を作曲した。また、指揮者にも就いていた。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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