~ショパンの肖像、~ヴァイオリンの名手メイセダー~

ジョセフ・メイセダー

(1789年10月27日ウィーン-1863年11月21日ウィーン)

オーストリアの ヴァイオリンの 名手で作曲家でした。


メイセダーは、ヴァイオリンのジョセフ・スーチェ(1797)、ポール・ラニツキー(1798)の弟子でした。1802年、彼はエマニュエル・アロイス・フェルスターから作曲を学びました。

1810年から彼はウィーン国立歌劇場 で演奏しました。彼は、1816年のホーフブルク宮殿チャペルオーケストラのヴァイオリニストでした。

そして1836年ウィーン国立歌劇場 オーケストラの指揮者となりました。

1835年に彼は宮廷音楽家に任命されました。彼は主要な奏者と弦楽四重奏を演奏しました。彼はヴァイオリンを教えながら作曲家でもありました。彼はいわゆるウィーンでヴァイオリ二ストの学校の創設者でした。ニコロパガニーニは彼に非常に敬意を抱いていました。

1820年に彼はパリへ行きました。彼は、ケルビーニ、ハベネック、レイシャ、ヘルツ、ヴィオッティやコンラディン・クロイツァー、などに会いました。

彼は、1830年から彼は数々の賞と名誉会員を獲得しました。

また、彼は1835年、帝国教会の音楽監督に任命されました。彼は、数多くの演奏会を宮廷から与えられました。彼は、ベートーヴェン、シュポア、ウェーバー、シューベルト、フンメル、モシェレスの作品を演奏しました。彼は 1837年にコンサート活動から引退しました。

1862年、彼はフランツ・ヨーゼフ騎士団の騎士の十字架の賞を受賞しました。彼はまた、ウィーンの音楽博物館の名誉会員でもありました。

彼が作曲家として遺した約70の作品のほとんどは、彼自身の演奏のために書かれました。

彼はウィーンの中央墓地の名誉墓地に埋葬されました。

ウィーン・マイゼデルガッセのインナーシュタット地区(1区)は、 1876年に彼の名にちなんで名付けられました。




***ショパンエピソード***

ショパンはウイーン滞在中に、ジョセフ・メイセダーの演奏を聴くため2度に亘り彼の演奏会に足を運びました。19歳のフレデリック・ショパンがウィーンを訪れたときに持って行った作品、序奏と華麗なるポロネーズ作品3は、フレデリック・ショパンのチェロとピアノのための室内楽曲です。この曲のポロネーズの部分はパトロンのアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ親子のために1829年10月20日から同月28日の間に作曲され、序奏の部分は1830年4月に作曲され、1831年に現在の形で出版され、オーストリアのチェリストのヨーゼフ・メルク(1795年—1852年) )に献呈されました。チェリストのヨーゼフ・メルクはメイゼダーと頻繁に演奏しました。ヨーゼフ・メルクは卓越した元々はヴァイオリ二ストでもありました、そのため、彼は「チェロのメイゼダー」とも呼ばれました。ショパンはメルクと共演もしました。

ショパンはウィーンでメイゼダーの独奏を2回聴いた日、ウィーンの街並みが美しかったと語りました。

ショパンは、メイゼダーの演奏に関しての感想は特に書いたものは残されていませんが、

ショパンは、メイセーダーに面会し、長時間議論を戦わせました。

実は、カロル・ソウティク伯爵(1791年生まれ- 1831年)はメイセーダーのパトロンでした。ショパンは代夫のスカルベック伯爵の紹介でソウティク伯爵とはウィ―ンへ行く前から面識がありました。ソウティク伯爵はポーランド貴族でした。ソウティク伯爵はウィーンで音楽を学んだことがあり、メイセーダーとヴァイオリンを学びました。そのためショパンは、メイセーダーに興味があったようです。ソウティク伯爵はクラクフに帰ったという記録はありますが、11月蜂起があった(1830年11月29日 – 1831年10月21日)

1831年にソウティク伯爵は亡くなっていますが、詳しい記録は不明です。ソウティク伯爵家は途絶えている記録だけが遺されています。





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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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