~フレデリック・ショパンがワルシャワの頃からのあこがれだったジョン・フィールド~

ジョン・フィールド

(1782年7月26日 - 1837年1月23日)

アイルランドの作曲家、ピア二スト、

「夜想曲」を書いた作曲家として知られる。モスクワとサンクトペテルブルクを中心に活動した。彼はミハイル・グリンカを教えました。

彼はダブリンで音楽家の家庭に生まれました。

そこで移民だったトマソ・ジョルダーニと共に教育を受けました。フィールドはすぐにロンドンに移り住みました。そして、ムツィオ・クレメンティ(1752年1月23日 - 1832年3月10日イタリアのローマに生れ、イギリスのイヴシャム で没した作曲家・ピアニスト・教師・編集者・出版業者・楽器製造業者)に学びました。クレメンティの指導の下で、フィールドはすぐに有名になりました。クレメンティとフィールドは一緒にパリ、ウィーン、サンクトペテルブルクを訪問しました。ロシアの首都に残るというフィールドの決定にはあいまいな点がありますが、実はフィールドは楽器商人だったクレメンティの営業担当でした。

彼の同時代の人々により彼はを非常に高く評価されました。そして、それは、フレデリック・ショパンのみならず、ヨハネス・ブラームス、ロベルト・シューマン、フランツ・リストなどの多くの作曲家に影響を与えたと言われています。彼はロシアのピアノ学校の発展に大きく貢献しました。

彼が教えた弟子には、プロイセンのピアニストおよび作曲家のシャルル・マイヤー(1799年3月21日-1862年7月2日)がいました。マイヤーはロシアのピアニストで作曲家のミハイル・グリンカとポーランドの作曲家フィリピーナ・ブレジンスカ・シマノフスカを教えました。

二人はフィールドに習ったとされていますが、実はふたりはフィールドの弟子のマイヤーから主に指導を受けていました。グリンカも有名だったフィールドからレッスンを受けたのは2、3回でした、若しくは1回かもしれません。


フィールドはイルランド教会のメンバーであったアイルランド人の両親の長男として、1782年にダブリンのゴールデンレーンで生まれました。彼の父親であるロバート・フィールドは、ダブリン劇場でヴァイオリンを演奏して生計を立てていました。

フィールドは、オルガニストであった彼の祖父のもとでピアノを学び、後にトンマーゾ・ジョルダーニ のもとでピアノを学びました。彼は1792年にダブリンで演奏しました。フィールドはアイルランドで作曲を開始しましたが、彼のその主張を裏付ける証拠はありません。また、彼の家族は洪水によりサマセット州バースに移ったと主張しました、そして1793年に短期間フィールドの家族はそこに住んでいましたが、これも現代の研究の結果事実ではないと見なされています。その後は、1793年後半までに、フィールドはロンドンに定住し、そこで若いピアニストだったクレメンティに師事し始めました。

フィールドは公演を続け、すぐにロンドンで有名になり1795年頃、彼のピアノ協奏曲の演奏はハイドンに称賛されました。

フィールドはクレメンティの下で、イタリアの楽器の製造と販売を手伝いました。彼はバイオリンの演奏も始め、J・P・ソロモンの下で学びました。彼の最初に公開された作品は、1795年にクレメンティによって発行されました。

1802年の夏、フィールドとクレメンティはロンドンでお金を儲けた後、ふたりはパリに行きました。そこから、彼らは今度はウィーンに移動し、そこでフィールドは、

  ヨハン・ゲオルグ・アルブレヒツベルガー(1736年2月3日-1809年3月7日オーストリアの作曲家、オルガニスト、音楽理論家ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの師の一人でもある)に面会しました。そして10月フィールドはアルブレヒツベルガーの働きかけでベートーヴェンの前で演奏しベートーヴェンに褒められました。

彼らは、その後、初冬にサンクトペテルブルクに到着しました。フィールドはサンクトペテルブルクの芸術的な生活に感銘を受けました。クレメンティは1803年6月にサンクトペテルブルクを去りましたが、フィールドに職を与え、高い報酬を受け取るように働きかけました。クレメンティが去った後、フィールドは、新しく設立されたサンクトペテルブルク・フィルハーモニー協会で演奏しました。1805年、フィールドはバルト諸国のコンサートツアーに乗り出し、夏の間はサンクトペテルブルクに滞在しました。翌年、彼はモスクワで彼の最初のコンサートを行いました。クレメンティは、1806年後半にロシアでのフィールドの古い作品の出版を手伝いました。クレメンティは明らかに出版と引き換えにフィールドにピアノを売らせていました。フィールドは1807年4月にモスクワに戻りました。1811年までサンクトペテルブルクを再訪しませんでしたが、サンクトペテルブルクのヴァシリエフスキー島にアパルトマンを残したままでした。1810年、彼はフランスのピアニストで弟子だったアデレード・ペルシュロンと結婚しました。

1808年まで、フィールドの音楽のほとんどすべての出版物は古い作品の再発行でした。1808年から9年にかけて、彼はロシア民謡のピアノ変奏曲から新しい作曲の出版を始めました。1811年に作曲家はサンクトペテルブルクに戻りました。彼はここで人生の次の10年間をこれまで以上に生産的に過ごし、多数の新しい作品を出版し、古いものの修正版を作成しました。彼は、当時最も著名なロシアの出版社であるH・J・ダルマスと、ブライトコプフ・ウント・ヘルテルとの出版に成功しました。1815年、フィールドは息子、レオン・シャルパンティエと、1819年に息子のアドリアンがいました。レオンは後にロシアで活躍する有名なテナーになり、アドリアンはピアニストになりました。1819年までに、フィールドは任命された宮廷ピアニストの地位を拒否しました。しかし、彼は充分に裕福でした。その後は、彼の生活様式と社会的行動はますます贅沢になっていきました。

1818年、出版社のウェンゼルとの契約をきっかけに、彼は営業活動をモスクワで再開しました。彼は妻と共に1821年にモスクワで演奏しました。しかし、その直後、妻のアデレードは息子アドリアンを連れて、フィールドから去り、彼女はソリストとしてのキャリアを試みましたが成功しませんでした。

フィールドはモスクワにとどまり、彼の音楽の演奏と出版を続けました。彼は1822年ヨハン・ネポムク・フンメルに会いました。

フィールドは贅沢な生活様式の結果として、彼の健康は1820年代半ばまでに悪化し始めました。 

1823年頃から、彼の演奏会の出演は減少し始めました。 1820年代後半までに、彼は直腸癌に苦しんでいました。医師の診察を受けるためにフィールドはロンドンに向かいました。

彼は1831年9月に到着し、手術後、マンチェスターで演奏会を行いました。彼はしばらくの間イギリスに滞在し、メンデルスゾーンやモシェレスなどの著名な人物に会いました。 1832年3月、彼の元教師で友人のクレメンティは亡くなり、フィールドは葬儀の喪主を務めました。

1832年のクリスマスの日、フィールドはパリで、彼の第7番ピアノ協奏曲を演奏しました。そして、さまざまなヨーロッパの都市での演奏会の後、フィールドはナポリの病院で9か月(1834〜5)過ごしました。

フィールドのロシアのパトロンは彼を助けました。彼はウィーンのカール・ツェルニーの家に短期間滞在し、そこで3回のリサイタルを行い、その後、息子のアドリアンと一緒にモスクワに戻りました。

彼は1836年3月に最後の演奏会を行い、1年後の1837年1月23日に肺炎でモスクワで亡くなりました。彼はヴヴェデンスコエ墓地に埋葬されました。目撃者の報告によると、彼の死の床で彼の宗教が何であるかを尋ねられたとき、フィールドは「私はカルヴァン主義者Calvinistではなく、チェンバリストClavecinisteです」と、ユーモアーで答えたという。

彼の作品の、ロシアの出版に基づいた夜想曲の改訂版にはフランツ・リストの賞賛が寄せられました。また、 フィールドはミハイル・グリンカにいくつかの教訓を与えたとされています。







♪***ショパンとフィールド***♪

ショパンはワルシャワ時代からフィールドに作品が似ていると言われたり、また、フィールドに間違えられたりしたこともありました。ショパンはそのことを光栄に思っていました。

しかしながら、いずれロシアで活動することとなったフィールドとはショパンが親交を結ぶことはありませんでした。

ショパンの夜想曲はフィールドの影響で作曲されたと見なされていますが、夜想曲を有名にしたのはショパンでした。

ショパンは1830年プラハに滞在中にドイツの作曲家のアウグスト・アレクサンダー・クレンゲルと知り合いました。ショパンはその時の事を「僕の協奏曲(複数)をクレンゲルに聴いてもらいました。僕の協奏曲は、彼にフィールドのことを思い出させました。

彼は僕のことを『珍しいタッチを持っている、このような名人を見つけるとは思っていませんでした』と言いました。

これらは空想的な賛辞ではありませんでした。彼は人々にお世辞を言ったり、誰かから賞賛することを強いられことが嫌いであることを僕に告白しました。」そのように語りました。

1823年には、ショパンはフィールドの協奏曲5番をワルシャワの演奏会で演奏したことがありました。そして、1831年パリでカルクブレンナーと会ったショパンは、カルクブレンナーから、『君はフィールドの弟子ですか?』と間違えられました。そしてショパンの演奏は『演奏スタイルはクラマーでタッチはフィールドだ』とカルクブレンナーから言われたショパンでした。

ショパンはパリに来たばかりの頃、そのような賛辞を受けましたが、1832年にショパンはフィールドと知り合ったとされています。1833年にはパリでショパンはフィールドの後継者と呼ばれるようになりました。しかし、その後、ショパンがフィールドと親交を結んだ記録はありません。

因みに、ショパンが婚約者と噂されたマリア・ヴォジンスカはジュネーブでフィールドに習ったとことがあるとされていますが、真相の程はわかりません。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです