~ショパンを説得しようとしたポッツォ・ディ・ボルゴ伯爵とは…その③ ~その時ショパンは…~

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「百日」(1815年3月1日にナポレオン1世が返還されてから1815年7月7日に政府委員会が解散するまでのこと)の間、ポッツォはルイ18世に現代ベルギーの領土を通って同行し、アレクサンドル1世をウェリントン公爵の部隊で表した。彼は、自由主義の自由の漠然とした約束を含む「フランスの人々への訴え」の公布を支持した。しかし、彼はこれに成功せず、イギリスからの揺るぎない抵抗に直面しました。イギリスの軍事指導部は極度の保守主義であり、決定的な反フランス感情を抱いていました。ウォータールーの戦いの間、彼は1815年6月12日に第4クラスの聖ジョージ勲章を授与され、クラブ大佐の騎兵隊に所属していました。 彼は戦闘中に密な低木で隠れていたという。

パリでの彼の新しい地位での仕事の最初の年に、ポッツォはフランスに同盟国によって課せられた重い補償を減らす努力をし、また国からの占領軍の撤退を加速しようとしました。ルイ18世は、その功績を高く評価したため、フランス軍に切り替えて外務大臣のポートフォリオを受け入れることを提案しました。 1816年1月15日、ポッツォは伯爵位に昇格し、1816年12月に彼はフランスの貴族になりました。

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1832年、ポッツォはサンクトペテルブルクのロシアの裁判所に行きました。 1833年、彼はロンドンに行き、主にウェリントン公爵との以前の接触を更新することを目標とし、1834年に彼は再び首相および外務大臣になりました。 1835年1月5日にロンドンに滞在中、彼はカンクトペテルブルグからの要請でロンドンのロシア大使に任命されました。

 彼は、22年間この地位を保持していたクリストフ・フォン・リーベンの後を継ぎました。

新しい任命は正式にはポッツォの威信を低下させなかったが、彼自身は不満であった。

ロンドンでは外国人を却下する傾向がありました、ヘンリー・ジョン・テンプル大臣(1784年10月20日 - 1865年10月18日イギリスの政治家、貴族である)は、ポッツォをしばしば2時間以上も待たせました。 ポッツォはかつてテンプル大臣の妻になったクーパー夫人の恋人でしたが、このエピソードは二人の関係を険悪にしました。

ポッツォは、1839年12月28日までロンドンの大使であり、75歳になって引退し、神経質な仕事によって健康が損なわれることを理由に全ての役職から引退しました。

ポッツォは、彼の人生の終わりまで独身で家族がいなかったため、ロンドンを離れてパリに行きました。

そこで彼は1842年2月15日に、彼の敵ナポレオン1世の死から20年後のウニベルシティルスカヤ通りにあるホテルデソエコート邸で亡くなり、ペール・ラシェーズ墓地に埋葬されました。



***ショパンとポッツオのことなどなど***

ショパンにロシアの皇帝の宮廷音楽家の称号を与えるよう働きかけたのはポッツオ伯爵でした。ポッツオ伯爵は1837年頃パリでポーランドの全権大使を務めていました。

ポーランドの難民のことはポッツオ伯爵にとって厄介な問題でもありました。

ポッツオ伯爵はロシアのチャルトリスキ公爵の推薦を受けてロシア皇帝アレクサンドル1世の外交顧問になったことがありました。ところが、3年後にチャルトリスキ公爵が失脚しました。その職を辞めたポッツオ伯爵はウィーンそしてロンドンへ逃げました。

チャルトリスキ公爵はロシア貴族ではなく元々はポーランド貴族の出身でパリに亡命しポーランド人の難民を救済しました。チャルトリスキ公爵とチャルトリスキ公爵夫人とショパンはパリのオテル・ランベールでポーランド難民たちといつも集会を開いていました。そして1832年2月25日チャルトリスキ公爵はイギリスに亡命し「ポーランド自由友の会」を設立しました。

チャルトリスキ公爵とショパンは仲間でした。そのためチャルトリスキ公爵はショパンの事を、かつては助けたことがあるポッツオ伯爵にショパンを助けるようにと頼んだと推測されます。

ショパンは革命家のブラックリストに載せられていました。

そのためショパンのロンドンへ行くための旅券の発行が難しくなっていました。その問題をポッツオ伯爵はショパンに対して条件付きで片付けようとしました。

ポッツオ伯爵は元々はイタリア人でロシアの命令の下で動いていました。そのため、

ショパンにロシアの宮廷音楽家としての話を持ち掛けましたが、ショパンは誘いを断りました。ポッツオ伯爵は、ロシアの宮廷音楽家を断るならばショパンがロンドンへ行けるように計らってもいいが報告書を提出するようにショパンに条件を出した可能性があるのです。そうして、ショパンは極秘でロンドンに行き、ロンドンでプレイエルの息子とイギリスのピアノ工場を見学し、その技術をパリに帰ってプレイエルの開発に使いました。そうして出来たのがプレイエルピアノでした。しかし、これはショパンにとっての最悪な初めてのロンドンの旅でした。

ショパンはポッツオ伯爵に言いました。「自分は11月蜂起に参加しなかったが、心はその人々と共にありました。そのため、私もパリに逃れてきた難民のひとりです。ですから、ロシアの宮廷音楽家の称号は辞退します。」ショパンはこの決断に何のためらいもありませんでした。自分のことを「僕は革命家だ。僕は金ではなく友情を取る」と友人にも宣言をしてワルシャワを発ったショパンだったからでした。

1835年から1839年までポッツオ伯爵はロンドンのロシア大使でした。ショパンが初めてロンドンへ行ったのは1837年でした。ポッツオ伯爵はパリのポーランド大使も兼任していました。

因みに、ポッツオ伯爵の敵だったナポレオン・ボナパルトの愛人だったマリア・ヴァレフスカはショパンの父親のニコラスが当時、ポーランドの貴族であったザボロフスキ家の娘だったマリア・ヴァレフスカを1799年頃から1802年まで家庭教師として住み込みで教えていたことがありました。マリア・ヴァレフスカとナポレオン・ボナパルトとの間に生まれたアレクサンドル・ヴァレフスキにショパンはパリに来たアレクサンドルに親切にしたことがありました。マリア・ヴァレフスカの従兄弟ともショパンはワルシャワの頃に交流がありました。













Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです  

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