F.CHOPIN、ショパンに会いにそれとなく和解に来たリスト

ショパンがバレエをオペラ座に観に行っている留守中にリストがショパンのアパルトマンに訪ねて来て名刺を置いて行ったのが、恐らく12月16日頃のことだった。

ショパンは書簡を書き始めてから13日目である。途中で中断しながらもほぼ毎日書き続けていた。

「リストが来ました。 彼はカレギリス伯爵夫人について多くのことを言っていました。しかし、私は彼の私の質問に対する答えを総合すると、うわさは非常に誇張されていました。」

カレギリス伯爵夫人はこの時23歳、彼女はドイツ系の父親とポーランド人の母親を持つポーランド貴族であった。パリやワルシャワの社交界でその美貌をもてはやされていた。

彼女がパリに移り住んだのは、この2年後の1847年である。リストは彼女とワルシャワの演奏旅行の折に知り合ったのかもしれない。

そのカレギリス伯爵夫人とリストの仲の噂話でサロンの社交界は持ちきりなのだ。

リストはわざわざショパンに会いに来た理由は、それを否定するためであったのかはわからなが、リストはショパンと和解がしたかったのであろう。ショパンはリストをあれほど敬遠していたのだが、リストの訪問を受け入れたのでした。

話題は何にしろ、ショパンのアパルトマンの部屋で会話した二人は少しはわだかまりが解けたのかもしれなかった。

 「ティトゥスの妻の兄弟がパリに来ていました。

彼は元気にイタリアへ行きました。 彼はティトゥスの近況についてすべて教えてくれました。僕はティトゥスがとても懐かしくなりました。あなたから ティトゥスに私の愛を与えてください、 絶対です。」

ショパンのワルシャワ時代の同級生でウィーン旅行に一緒に行って苦労を共にした親友ティトゥスのことだ。1830年のことで15年もの間、ショパンはティトゥスに会っていなかった。

1830年11月の蜂起の時、ティトゥスはワルシャワに戻り、戦闘に参加した。彼は少尉になりヴィルトゥティ・ミリタリ(軍事勇気-ゴールドクロス)を授与されていました。ティトゥスは結婚し、息子の名前に親友ショパンのフレデリックという名前を付けていました。そのことをパリに来たティトゥスの義理の兄弟から聞かされたショパンは、嬉しくなってしまったのだ。

ショパンとティトゥスはその後も、もう会うことはなかった、しかし、その友情は互いに生涯忘れることなく続いたのでした。



マリア・カレルギス(1822年8月7日 ワルシャワ - 1874年5月22日 ワルシャワ)

ポーランドの貴族、ピアニスト、芸術家のパトロン。

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