F.CHOPIN、母ユスティナ・ショパンから最愛の息子フレデリック・ショパンへの想いとは...

親子というものは不思議なものだ。フレデリックがワルシャワの家族を恋しく想って書簡を書いている頃、同時にワルシャワで妹のイザベラ夫妻と暮らしている母のユスティナもまた、年の瀬に息子のフレデリックに便りを書いていたのだ。そのユスティナからの便りが12月の末の頃に書かれたものだとしたら、ユスティナはフレデリックの15日間かけて書いた書簡は25日に出され、ワルシャワにまだ届かず読んでいないのだ。と、当時の郵便事情を踏まえるとそう思う所であるが・・・、

実は、フレデリックはグートマンに直接書簡をワルシャワに運んでもらうようになっていたのだ。しかし、ショパンは9月以降は彼とは頻繁には直接会わないように気をつけていたのだ。それは、最近、パリで偶然会うワルシャワからやって来るロシア寄りのポーランド人の目が気になるからなのだ。。。

ショパンは書簡をまずロゼールに手渡し、ロゼールからグートマンにリレーしワルシャワへ届けたのだ。

そのため、25日に書き上げた書簡は2日後位にはワルシャワに届き、ユスティナが返事を直ぐ書いて、それをグートマンが持ってパリへ帰り、ロゼールに手渡し、ショパンはロゼールから受け取る。というわけである。ユスティナは最愛の息子が寂しい思いをパリでしていることは解っていた。

「お前の元気な知らせを私たちに知らせてくれて、私たちはとても喜んでいます。グートマンさんは9月にお前を見た時、お前は元気そうだったと私たちにおっしゃいました。

神様はそれが真実であると認めてくださっています。

私は歳の割には健康でいられるのも神様のお蔭と感謝をしています。私はめったに外出をしないのです。リウマチを悪化させるようなあらゆる事は避け天候の変化から身を守っています。」

ユスティナはショパンが言っていたようにグートマン氏に会ったのだ。

父ニコラスが亡くなってからは、もうニコラスからの新年の便りが来ないフレデリック。

母ユスティナからの便りは嬉しくもまた、ニコラスが居ないことを実感する寂しい便りでもあるフレデリックなのだ。

ユスティナの便りは続いた、

「私の周りの人たちに迷惑をかけないように、私はルドヴィカに会うことはめったにありません。

親愛なる息子よ、ありがとう、いつもお前からいただいている贈り物に感謝します。それらは私にとって快く大切なものです。しかし、私は滅多に外出しないのです。私はほとんど人に会わないのです。お前は私にお金を浪費していることになります。」

フレデリックはワルシャワでつましく生活する母ユスティナに洋服を買って送っていたのだ。ユスティナに自分のために借金を負わせたことがあるせめてものお詫びだったのだ。

この時、ユスティナは63歳だった。夫のニコラスを1844年5月3日に亡くして1年半やっと経ったところで、娘だったルドヴィカは4人の子供の母親になり、次女のイザベラは孤児院の

母と呼ばれるようになり、そして、息子のフレデリックはパリに、ユスティナが居るのはイザベラの所だ。子供もそれぞれ独立したユスティナは、すっかり老人の気分になってい

た。

「お前のおかげで最近とても嬉しいことがありました。

お前が以前言っていたようにオブレスコフ夫人が旦那さんと一緒にここに来てくれました。彼女はアテネで娘に会いに行く途中でした。 。 。 。

( 彼女は、オブレスコフ家と私がパリに戻るための小さな計画について話を続けました。)

冬の間ずっとお前と一緒にいなくてはなりません。

かわいそうな息子よ、私と一緒に何をしますか?

私はお前の心配の元に過ぎないはずです。

私はお前の良さを知っています。

お前はいつも不安を感じ、私が退屈していると感じ、私が快適ではないのではないか、などなど、お前は私を心配するであろう。いいえ、私の愛する息子よ、私はそのようなことをしたくないのですよ。

特に、お前にはお前を最大限に世話してくれる人がいるので、私はとても感謝しています。

神はあなたに会うことをまだ許すかもしれません。

私は希望を失いません。

新年の神の配慮と祝福がお前の頭上に降り注ぎますように。それがお前の母の心からの祈りです。

スザンヌとルテンスカ夫人からご多幸を祈りますとのことです。私の尊敬するサンド夫人にもよろしく伝えてください。」

ショパンは母ユスティナをパリに連れて来るようにオブレスコフ夫人に7月から頼んであったのだ。その計画を母ユスティナにも、それとなく7月に伝えてあったのだ。フレデリックは自分の寂しさだけではなくワルシャワの家族のことをいずれは全員を亡命させたかったのである。それを7月の頃からオブレスコフ夫人とショパンは計画を練っていたのだ。オブレスコフ夫人に最初に母ユスティナをパリに連れて来てもらい、来年の春には残りの家族全員を連れて来てもらう計画だったのだ。そのことは母にも7月に予告がしてあったフレデリックだった、

ワルシャワにいるユスティナは不安でしかなかった。息子の便りの指示通りに、いくら親切な人とはいえ会ったこともない人の言うことを信じて馬車に乗って行ってもいいのか…。

このままワルシャワにひとりでいてもこの先いいことはないことは想像がつくユスティナだったが、パリで健康と貧乏と闘いながら5線譜に向かう息子を想像すると、息子のアパルトマンに厄介になるわけにはいかなかった母ユスティナだった。そして、ユスティナはやさしい息子の気持ちはよくわかっていたが、フレデリックの今をすべて理解しているわけではなかった。

息子に迷惑をかけたくない親心とサンドという女の存在、サンドのことはユスティナが一番嫌っていたことなのだ。サンドという霊媒師の女とは別れるように言ってきたのはユスティナだった、しかし、ルドヴィカからサンドのことを聞いたのであろう。ルドヴィカ夫妻がノアンに来た1年前の出来事、あれは、お客様がいる間のサンド一家の仮の姿だったのである。

パリに来てはくれなかった母ユスティナ。サンド夫人がショパンを世話をすることは実はなかったのだ。金遣いが一番荒いのは実はサンドだった。ショパンはリストからも、いい加減にサンドに血を吸われる生活から見切りをつけるよう忠告されたかもしれなかったのだ。

そして、もしもユスティナがパリに来てくれていたら、フレデリックはどんなに元気になったかしれない。

それにしても、母ユスティナに服を用意しパリからフレデリックがわざわざ送った本当の意味は何だったのか、それはただの贈り物ではなく、母にワルシャワの普段着ではなくパリの貴婦人の高価な最新の装いでオブレスコフ貴族の一家に紛れて一緒に馬車に乗ってパリに来てください、とフレデリックはそういう意味だったのかもしれないのだ。

フレデリックはオブレスコフ夫人のことを「身分の高い貴夫人で、たいへん気軽な感じのする方なので、そのようには見えないのですが…。」とワルシャワの家族へ7月の頃に伝えていた。オブレスコフ夫人の娘さんとはキャサリン・ド・ソウーゾ侯爵夫人のことでショパンの弟子だった。




【幻想曲短調 Op.49は1841年作曲され「ファンタジー」という標題で自由な形式を示し、ロマン派的な表現を与えたことで知られている。ショパンの最高傑作の作品の1つと考えられている。オブレスコフ夫人の娘で、ショパンの弟子だったキャサリン・ド・ソウーゾ侯爵夫人に献呈されました。】



ポーランド最古の写真から 19世紀頃のワルシャワ、サスキ公園

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです