F.CHOPIN、ノアンのサンドへ「ノアンのピアノはあなたに差し上げますから900フラン私に払ってください」ショパンより

ショパンはサンドの子供達のことを愛してきた。いつも気にかけてお金も支援をしてきた、、
「親愛なる子供たちへの愛を、」とショパンはサンドへの返事を書き終えた、その時、
ショパンのパリのアパルトマンの玄関の呼び鈴が鳴った。ショパンが返事を出す前にサンドからの2回目の書簡が届いてしまった。
それを直ぐに読んだショパンは、サンドへの気持ちが変わった。
でも、もう書簡は書き直しする時間すらもない、ショパンは続けてサンドへ返事を書いた、
「6時間遅れの手紙を受け取りました。」
冬のパリは雪で馬車が使えず郵便が届くのが遅れることがよくあった。
おそらくはショパンの返事も2回目だったかもしれない、
「私は、とてもあなたの親切で素晴らしい書簡を受け取りました。
ては、私は明日あなたの毛皮のコートを送ることを取り止めます。
あなたをパリで待つことにします。
パリであなたのマントのお直しをしますから、そのマントをこちらへ送ってください。
それができる洋裁屋はありますか?
あなたの指示をお待ちします。」
ショパンはもう少しでサンドの毛皮のコートをノアンへ送ってしまうところだった、しかも他にもサンドの物をノアンへ送るから書いて来るようにとも書いてしまったところだった。
確か、ノアンにあるピアノはサンドが買ったのではなく、ショパンが苦労の末に買った物だった。つまり、ノアンの館にあるからあなたのピアノということにしますが、あれは私が90万円で買った物です。パリにはピアノがあるから、ノアンのはそのままあなたに譲りますが90万ですよ。と言いたかったショパンだった。(ノアンの縦型のピアノは900フランだったとショパンは話しているが、当時のプレイエルピアノは1884年頃3280フランだった。一般庶民の年収が凡そ720から1000フランだった。)
いろいろな過去の精算をしたいショパンだったが、サンドが今まで通りの力関係を匂わす書簡を送って来たため、ショパンは仕方がなく、サンドの指示に従うと返事したのだ。
サンドがノアンの田舎にに引っこんでいるのも一時的に借金から逃れるためもあったからだ。
サンドがこのままパリに来なくなることはあり得なかった。
ふたりのモヤモヤした関係はまだまだ続いていくのであった。
「お菓子を喜んでもらいうれしいです。
私はあなたの葉巻ライターを送りませんでした、その中に十分な火口があるかどうかはわからなかったからです。
グシマーワ に会いに行く前に、この書簡を本部の郵便局に持っていきます。」
本部の郵便局とはパリ1区にあるパレロワイヤルのことだ。
ショパンは寒い雪のパリを歩いて郵便を出しに行ったのだった。
やはりパリに戻ってから、サンドからショパンへ1回目、その返事をショパンからサンドへ
送った時にサンドの身の回りの物とパリの
高価なお菓子を送ったのが1回目の返事。
次にサンドからの返事を待ちきれず、
ショパンが2回目の返事を書いたところに
遅れてサンドから返事が来たわけだ。
その1回目のやりとりした書簡は現存していない。この頃パリとノアンまで郵便事情は片道馬車でおよそ一週間はかかった、サンドとショパンの心はすれ違いながらも書くことでしか連絡を取り合えなかった。

ノアンの館のショパンが滞在していた2階の部屋へ続く階段、ショパンの隣はサンドの部屋と繋がっていたが、その反対側の隣りの部屋に不審者を感じるようになっていたショパン。ショパンはこの先、もうノアンの辛い階段を登ったり降りたりしなくてもいいのだ…

「ドラクロワの肖像画と自画像」1845年
サンドが描いたスケッチ
アメリカオハイオ州 クリーブランド美術館
所蔵


ドラクロワよりもサンド自身のほうが大きく上に描いてあるところが何とも言えない、、、


Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです  

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