F.CHOPIN、ポーランドへの変わらぬ想い、チャルトリスキに招かれていたショパン

ショパンはパリで誰に会ったかノアンのサンドへ書いていた。
1846年も終わろうとしていた最後に綴った。
「私はは元気です。 
グシマーワはあれからずっと調子が良くなりました。
今日は彼とホテルランベール館に一緒に行きます。
私が着る事が出来るありったけのコートを羽織って出かけます。」
ショパンはサンドへの書簡を昼間書き上げた後は、パリのセーヌ川沿いにあるサン=ルイ島のホテルランベール館にポーランド難民の集まりに招かれていた。
一方、サンドは この秋と冬の間にノアンのサンドと彼女の子供のモーリスとソランジュが
人形劇場をノアンの館でショパンが居ない間も上演していた。
パリで流行っていた人形劇場を真似して人形を製作するにあたり人形師を雇ってたくさんの人形を作らせていた。パリでは貴族はお抱えの人形師を雇っていることがステータスだった。サンドもパリで流行っている劇を真似て同じようにノアンの館に人を招いて上演していたのだ。
このサンドの行動こそがショパンを悩ます種でもあった。人形劇はだんだんと派手になり多くの時間とお金が浪費されたのだった。
モーリスがサンドと人形を製作していたという逸話はどこまでがどうだったかはあまり信憑性がないのだ、いずれにせよサンド一家の
散財に付き合わされてきたショパンはサンドから逃げたくなっていて当然だった。
ショパンはパリでこの頃もまだ、
パリのサン=ルイ島にあるホテルランベール館によく行っていた。ポーランド難民の集まりにサンドの恋人のグシマーワと出かけていたショパンだった。ポーランド貴族だったチャルトリスキはパリのポーランド難民の指導者でホテルランベールを買い上げ住居にしてポーランド人を助けていた。
正月にはポーランド難民のためのチャリティーセールを開いていた。ショパンはチャルトリスキのために演奏をしていた、ショパンは献身的に演奏しただけではなく、いろいろなお土産も持って行っていたに違いない、それは祖国ポーランドへの愛国心からだった。。

ホテルランベール館でポロネーズを演奏するショパン。
ポーランド画家テオフィル・クウィアトコウスキーによる絵画。
ショパンの演奏に耳を傾けるチャルトリスキ
、ショパンの右側

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです  

0コメント

  • 1000 / 1000