2019年1月16日記事から【最愛のコンスタンツァアとショパン】をお届けします

ウッチとワルシャワのほぼ中間地点に位置するスキェルニェヴィツェはポーランドの中部に
ある街だ。
そこに、「教会の近くの家」と呼ばれるコンスタンツィアが晩年を過ごした家がある。
コンスタンツィアは1810年6月10日にワルシャワで生まれた。
ショパンと同い年の彼女は16歳でワルシャワ音楽院で歌い始めた。1829年ワルシャワ音楽院
の演奏会の日、ショパンは彼女の姿と歌声に恋をした。ショパンは彼女の魅力に影響を受け
ピアノ協奏曲op21とop11を作曲した。
ショパンとコンスタンツィアの二人は指輪を交換した。ショパンは祖母から伝わるダイヤモ
ンドの指輪をコンスタンツィアの指に与えた。コンスタンツィアは、母から伝わる指輪をシ
ョパンに与えた。
ショパンは1830年10月11日テアトル・ナロドーヴィで行われた告別演奏会でショパンは
協奏曲第1番作品11より第3楽章アレグロを演奏した。コンスタンツィアはロッシーニの
歌劇「湖上の美人」よりカヴァティーナを独唱した。
そして、ショパンは協奏曲2番より第2楽章ラルゲットと第3楽章ロンドを演奏し、最後にポ
ーランド民謡による大幻想曲作品13を演奏した。
協奏曲はコンスタンツィアへの憧れから書かれた作品で、コンスタンツィアはショパンに大
きな影響を与えたのだ。友人のティトゥスにもコンスタンツィアは理想の女性とショパンは
語っていた。
ウィーンへ行ってからもショパンはコンスタンツィアのことがいつも頭から離れなかった。
彼は友人のマトゥシンスキを通してコンスタンツィアの様子を手紙で訊ねたり、マトゥシン
スキを通してコンスタンツィアへ手紙を送り続けた。
ショパンはパリに行ってからもコンスタンツィアとの手紙は続いていた。
しかし、その後、1832年コンスタンツィアはヨゼフ・グラボフスキと結婚。その頃、
ショパンはパリでロスチャイルド家に気に入られたのであった。そして、その後
コンスタンツィアとの手紙のやり取りは途絶えたのであった。
その後のコンスタンツィアの人生は、彼女は 35歳で失明した。
コンスタンツィアは夫の死後、彼女はラドゥースの土地を売却しスキェルニェヴィツェへ引
っ越した。 
「教会の近くの家」と呼ばれているコンスタンツィアの家で、彼女は人生の最後の10年間を
孤独に過ごした。彼女は時々ピアノに座って演奏したという、ショパンを思い出していたの
かもしれない。
彼女がかつてショパンと交際していたという事はあまり知られてはいなかったが、
彼女は自分の名前は名乗らず、夫の名前グラボフスキを最後まで名乗っていた。
彼女は亡くなるまで、ショパンの思い出の品を片時も離すことはなかった。しかし、彼女は
亡くなる前に、ショパンの手紙とショパンの肖像画など、ショパンの思い出のすべてを燃や
した。
コンスタンツィアが生涯大事にしていたショパンの小さな肖像画は友人のマトゥシンスキが
ウィーンからショパンに頼まれコンスタンツィアに届けたものであった。
ショパンがウィーンからパリへ向かうときの心情は、ショパンのコンスタンツィアへの心変
わりはなくショパンがコンスタンツィアのことを想っていたことは事実のようだ。
コンスタンツィアは1889年12月20日に亡くなった。
コンスタンツィアはショパンが亡くなったことはいつ知ったのであろう。
ショパンはコンスタンツィアが盲目であることはいつ知ったのであろう。
ショパンからの手紙を亡くなる前にコンスタンツィアが自分で燃やしたことは、純粋無垢な
穢れがないショパンとの思い出を誰にも渡したくなかったのではなかろうか。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです