F.CHOPIN、ポーランドの頃の友情をパリで確かめたいショパン…✳︎ ノヴとショパン✳︎

ホテルランベール館のポーランド難民のためのチャリティーコンサートに関わっていたグシマーワのお金の流れを知ったショパン、
それを踏み止まらせようとしたショパン。
このコンサートでショパンはお金を得た形跡はなかった。それでもショパンは演奏した。
それから6日後、ショパンは探していた友人ノヴァコウスキに書簡を書いていた。
「僕とノヴァコウスキはポーランド語で話すことが出来るから、多くの思い出がよみがえると思います。
マッシンスキは亡くなってしまい、ローラ伯爵夫人がこのノアンを去ってから、僕は、ポーランド語を話していません。」
ポーランドの家族にショパンが書簡で心情を
こう語ったのが3カ月程前だった。
ショパンはワルシャワ音楽院の頃からの親友だったノヴに会いたがっていた。
パリにノヴはショパンを頼って来ていた。
ノヴもまたポーランド難民のためのチャリティーコンサートに来ていた、ホテル・ランベール館で二人は再開をしていた。
「その後あなたはお元気でしょうか。
金曜日のホテルランベール館から会っていなませんね。9番地の12時から1時までの間に私に会いに来てくださいませんか。」 
ショパンはノヴにポーランド難民のためのチャリティーコンサートで会ったが、そこでは話せなかったことをノヴに会って話したかった。ショパンが指定した場所9番地とはショパンのアパルトマン9区に恐らくは夜中に来てほしいということだ…。
「私が家を出るのが難しいことは、あなたは知っているでしょうし、あなたが私に会うことをそれほど楽しみにしていないのであれば
この話はなかった事で、」
ショパンは人と会うための外出をすることに
用心深くなっていた。その理由は(君は
知っているはずだ)とノヴにショパンは
念を押した。
「私があなたに会うのを楽しみにしているのは、あなたがポーランドにいたときと変わらず、他の誰にも似ていない太陽のような風変わりな性格だからです。」
会って話したい理由は少年時代のように親友として純粋に語り合いたいだけだと言う
ショパン、、、
ノヴとショパンはポーランドの音楽院で同じエルスネル門下であった。そのせいかは分からないが、ショパンと同じようにポーランドを題材にした曲が多いノヴだった…。
ノヴは1838年、1841年、そして1846年から1847年はパリに居た。
1836年、ノヴはショパンと一緒にライプツィヒのシューマンを訪ねた仲でもある。
「あなたはどこかへ行ってしまうだろうから、たとえあなたがお金を払ったとしても、私たちは会うことはお金では買えないことです。もし、私と会わなかったら、あなたの口ひげを僕によく見せてくれなかったことを
あなたは後悔するでことでしょう。」
ショパンはノヴがホテルランベール館に
自分の演奏を聴きに来たのは何故か予想は付いていた。
どういうつもりか知っていながらもノヴとの友情を更に確かめようとするショパンだった。
ホテルランベール館

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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