ショパンはポーランドを出国(1830)して当時ドイツ領であった
ヴロツワフ(1945年第二次世界大戦後にポーランド領になった)に立ち寄った。
ショパンはヴロツワフ劇場で喜劇オペラを鑑賞したあと、地元の音楽クラブに
シュナーベルの誘いでアマチュアが出演する音楽会のリハーサルに行った。
そこで、ショパンは恩師であるユゼフ・クサヴェルィ・エルスネル先生の大親友でヴロツワフ出身のドイツの音楽家ヨゼフ・イグナーツ・シュナーベルに会った。
ショパンの演奏を是非聴きたいとシュナーベルはショパンの手を取り強く懇願した。
ヴロツワフでは演奏しないとショパンは決めていたが、シュナーベルの頼みを断りきれず、
ショパンはわざわざ宿までシュナーベルの息子と馬車に乗り協奏曲2番の楽譜を取りに帰った。
そして、シュナーベルと人々に協奏曲2番のロマンスとロンドを演奏した。
(2番にロマンスは存在しないため、現在の1番の第2楽章と第3楽章を演奏したのであろう)
その晩の演奏会はショパンが主役の演奏会となり、
訪れたドイツ人の観客や地元の音楽家のさまざまな反響を見て取ったショパンであった。
ショパンの音楽を解ってくれたのはのヴロツワフの音楽通のひとりとシュナーベルだけで、その他のドイツ人は全く理解していないようであったとショパンは感じ取った。
ヨゼフ・イグナーツ・シュナーベル
ドイツの作曲家兼教会音楽家
(1767年5月24日ポーランド ノボグロジェツ
-1831年6月16日月ポーランド ヴロツワフ)
彼はポーランド のノボグロジェツシレジアので生まれました。彼の父親は音楽家でした。彼はヴロツワフのヴィンセント教会の聖歌隊員でした。彼は司祭になるため、12歳から
聖マティアス・高等学校に通いました。
しかし、彼は慢性的な耳痛が発生し司祭の生活に適さないと医師から宣告されました。
彼は聖マティアス・高等学校を卒業後に教師になるための訓練を受けました。
1797年から彼は現在ポーランドにあるブレスラウのヴィンセント教会でヴァイオリニストとして働き、後に聖クララでオルガン奏者として働きました。 1798年に彼はブレスラウの劇場オーケストラでヴァイオリニスト兼コンサートマスターになりました。 1805年4月1日、彼は音楽監督を務めました。
1812年に彼は大学の音楽監督になり、カトリック神学校でも教鞭をとり、王立聖音楽研究所の理事も務めました。 1819年に彼はフリードリヒヴィルヘルムバーナーとヨハンセオドアモセウィウスと大学で宗教音楽協会を設立しました。シュナーベルは1823年に名誉博士号を授与されました。
息子のジョセフ・シュナーベルは、ポーランドのグウォグフのオルガニスト兼音楽教師で作曲家でした。
彼は1831年6月16日にポーランド ヴロツワフで亡くなりました。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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