F.CHOPIN、ソランジュの胸像とサンドの胸像を製作したクレサンジェ…そしてショパンの良心とは。。。

ソランジュの婚約は寸前のところで取り下げられた。その代わりにソランジュの結婚相手として彫刻家のオーギュスト・クレサンジェが浮上してきた。
クレサンジェは以前からサンドと関係があった。クレサンジェは売れない若い彫刻家だった、そこに目を付けたサンドが自分の小説をクレサンジェへ贈ったことが始まりだった。クレサンジェはサンドの胸像を製作をしたり、パリのサンドの自宅で開催していた芸術家が集まるサロンに招ねかれていた。ソランジュはそこでクレサンジェと知り合った。
ソランジュがクレサンジェと関係を持つことは母親サンドへの報復である。思惑通りにならなかったサンドは娘を連れてパリからノアンに慌てて帰るしかなかった。
田舎の貴族の家柄の若い男に娘ソランジュを
借金の肩代わりに売りたかった母親サンド…。
ショパンはこの一件をポーランドの家族へ宛てた書簡で伝えた。(ショパンはポーランドの家族からの返事として書いているが、この時の家族からの書簡は現存しない)
「すぐに返事を書かなくては、後になってからでは自分の気持ちを出せなくなる。
紙に向かって自分の気持ちを押し出すのではなく、良心が紙から遠ざけてしまうからだ。
それは良心があなたを紙面から遠ざけてしまうことになるからです。
サンド夫人はここに来て2ヶ月になりますが、復活祭の後すぐにノアンに帰るそうです。
ソランジュはまだ結婚しません。
契約書にサインするために婚約者とパリで会ったとき、彼女は婚約の契約を進めようとしませんでした。私はそれを残念に思うし、あの若者にも申し訳ないと思っています。
しかし、結婚式の後ではなく、結婚式の前に起こった方がまだましでした。」……
ショパンは中立な立場で正直な自分の気持ちをポーランドの家族へ伝えた。
ソランジュのことは子供の頃から見て来たショパン、本当の家族以上にサンド一家の行く末を案じていた。。


オーギュスト・クレサンジェ(1814年10月22日 フランス・ブザンソン- 1883年1月5日パリ)彫刻家
オーギュスト・ジャン=バチスト・クレサンジェは、彫刻家ジョルジュ・クレサンガーの息子として生まれたが出生については不明な点が多いとされている。彼の父親はオーギュストをローマに連れて行き彫刻を学ばせました。 そして、ローマでデンマークの彫刻家トルバルセンに学んだ。
その後、彼は1838年にスイスに滞在し、パリへ戻って1839年にダビッド・ダンジェの弟子となった。
1840年から1841年の間、彼はスイスのローザンヌで働き、多くの肖像画の胸像の創作活動を始めた。
1843年彼はフィレンツェでサロンへの最初の参加のためにジュール・バルダオンの胸像を製作した。1845年にアレクサンドル・デュマやエミール・ド・ジラルディンなどの熱心な支持者を得た。
1847年に彼はジョルジュ・サンドとその娘であるソランジュと結婚した。同年、クレサンガーは「蛇に咬まれた女性」(現在オルセー美術館)を発表し挑発的な作風はパリのサロンでスキャンダルを引き起こした。
彼の作品は、主題の猥褻さとエロティシズム、特に「デミモンダイン(売春婦)」、アポリニー・サバティエ(高級娼婦)の性質を持つと批判された。これらの告発に反して彼は非常に官能的な作品を発表し続け1848年のサロンでテオフィル・ゴーティエによって「現代彫刻の最も美しい作品の1つ」と評価された。しかし、
オーギュスト・クレサンガーは、「フランソワ1世のシュヴァル」で批評家の厳しい批判を更に受けたため、ローマに移り住み、ここで彼は、ルネッサンスの偉大な芸術をリードするよう豪華で大胆な表現でイタリア社会を魅了することで評価を高めようとした。
彼は1859年ローマのスタジオのサロンに2つの大理石の彫像サッフォーとジンガラ、大理石の彫像、サッフォーの若者、ローマ人を製作発表し成功した。その後、
1864年フランス、ブザンソン、そしてパリに戻った。彼は1883年1月6日に彼が死ぬまで彫り続けた。
✳︎彼はまた、パリのペール・ラシェーズ墓地に建てられた作曲家フレデリック・ショパンの墓の記念碑の製作者である。


0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです