F.Chopin、フランショームは真の友か、ショパンの誘いを断るノヴ…

チェリストのフランショームは
ショパンの真の友人なのかそうではないのか、フランショームは1年前の1846年にパリ音楽院のチェロ科の主任教授に就任したばかりだった。(フランショームとはパリにショパンが来て以来の友人で1833年の秋にフランショームの田舎の実家にショパンは招かれたことがあった仲だった。)
フランショームの意向に添うようにチェロソナタを何度も何度も書き直しを重ねたショパンは疲れていた。
「フランショームは明日の音楽院のコンサートのボックス席のチケットを持ってきてくれました。
彼はルドヴィカとカラサンティによろしく伝えて下さいと言っていました。
かわいそうに、彼の3人の子供はすべてはしかにかかっているそうです。
それはひとつの不幸ですが、私にはあり得ないことです。」
パリ音楽院のコーンサートのことはショパンは遺恨があった。ショパンは、パリに来たばかりの1832年に出演の申し出を断られたことがあった。そして1835年には音楽院の演奏会に出演する許可を得て成功したかに見えたショパンだったが、ショパンにとっては本番の演奏で何かが起きたのだ、その後3年間、ショパンは公の場で演奏することはなかった。
それから12年、音楽院の演奏会のフランショーム主任教授のチケットノルマを助けていたショパンだった。
ショパンはボックス席の高いチケット代を払っていた。
そして、ショパンの元には詩人のルグヴェルの夜会の招待も来ていた。
友人のノブ(ノヴァコウスキ)を夜会に誘ったショパン、
「ノヴァコウスキは家に着いたかもしれない。
フランショームは、彼がパリにいるときはよく彼と会っていたが、フランショームはノヴァコウスキを馬鹿だと思っていた。
私に会いにノヴァコウスキが来た日、
彼はエルネスト・ルグヴェルの屋敷で開催される夜会に私に同行することを断りました。
夜会に行けばノノヴァコウスキは、多くの著名な学習者と交流できただけでなく、例えば、たとえば、オペラ歌手のルイジ・ラブラーシュに会って、歌声を聴くことが出来たことでしょう。
 彼はいい奴だが、ばかだ!神のご加護を!...」
ノヴァコウスキにエルネスト・ルグヴェルの夜会の音楽会の誘いを断ったノヴァコウスキを罵ったショパンだった。
ショパンの姉ルドヴィカへの長い長い書簡はまだ続くのだ…。
エルネスト・ルグヴェル
1807年2月14日パリ-1903年3月14日パリ)フランスの劇作家・詩人

彼の父親は、詩人ガブリエル・マリー・レゴウヴェ(1764–1812)でした。
彼の母親は彼が3歳の1810年に亡くなり、
彼の父親はブランシュ博士の診療所「フォリーサンドリン」に収容され、精神病で2年後に亡くなりました。彼は莫大な財産を相続しました。
家庭教師のジャン・ニコラス・ブイリー(1763年- 1842年)に育てられた彼は小説を書くことを教わりました。
1847年に彼は、女性の道徳的歴史について女性の精神の発達と教育への貢献をしました。これらは1848年に発表されました。


0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです