F.Chopin、ノヴからショパンへの友情の証はポーランドの民族音楽

ノヴがポーランドからパリに居るショパンのために持って来てくれたのは、ポーランドの民族学者で作曲家のコルベルクが作曲した民謡曲集だった。
「ノヴの目の付け所は正しいが、コルベルクを背負うのは僕は肩の荷が重い。」
フレデリックはルドヴィカにコルベルクを基に自分が新しい曲を作曲するのは至難の業であることを説明した。
「このようなものを見ると、何もしない方がいいのではないかと思うことがよくあります。なぜなら、そのような手間のかかる努力は、その分野(民謡)の現場を荒らし、いつか真実を解き明かしてくれるかもしれない天才の仕事をより困難にするだけだからです。しかし、その日が来るまでは、これらの美しい民謡は、ただ何気なく調査して真似たところで……粗野に飾られたままで、結局は人々の笑いを誘うに過ぎないのです。」
ショパンは民族学の分野においては興味本位で手を付けるべきではないと考えていた。
その土地に伝わる美しい民謡は調べるまでに止めたほうが身のためだ、下手に真似してみても結局のところ洗練されていない曲は大衆の笑いを誘うだけだとショパンは説いた。
1814年2月22日– 1890年6月3日)
オスカル・コルベルク
(ヘンリク・オスカル・コルベルク)
(1814年2月22マジョシェフ県プシスハ-1890年6月クラクフ)
ポーランドの民族誌学者、民謡音楽の収集と作曲。
彼はポーランドの民族誌学の創始者であると考えられています。
オスカル・コルベルクは、メクレンブルク・フォアポンメルンから来て1796年にワルシャウに定住したエンジニアのユリウシュ・コルベルクの息子として生まれました。
オスカルの母親は、ヴィスワ川のフォルドン(現在はビドゴシュチュの一部)のフランス移民の家族に生まれたカロリーナ・フリデリカ・メルクールでした。
コルベルクは1810年から1817年までプシスハに住んでいました。オスカルの父は製鉄所のマネージャーとして働き、
1817年ワルシャワ大学で測地学と測量の教授に任命されました。その後、家族はワルシャワに戻り、カジミェシュ宮殿に住みました。コルベルクは、とりわけ、フレデリック・ショパンの父ミコワジ・ショパンとポーランド詩人のカジミエシュ・ブロジンスキーと友人でした。
1823年から1830年にかけて、コルベルクはワルシャワ高等学校に通いました。コルベルクの2人の兄弟のヴィルヘルムとアントニも同じくワルシャワ高等学校でフレデリック・ショパンの友人でした。11月蜂起の発生と施設の閉鎖により、コルベルクの教育は中断されました。1835年から1836年にかけて、彼はベルリンに滞在し、音楽理論と作曲を学び、商業アカデミーに通いました。
彼は、ポーランドのすべての地域の民俗伝統をまとめて出版しました。1857年から1890年の間に、彼は33巻を出版し、彼の死後、さらに3巻を出版しました。これらは、12,000の民謡、1,250の民話、670のおとぎ話、2,700のことわざ、350のなぞなぞ、15の民俗眼鏡、などの民族誌が含まれています。
その他コルベルクは近隣地域の民族誌を収集しました。彼はクラクフで亡くなりました。

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