フレデリックが姉ルドヴィカに書簡を書き始めて1週間が経った。
毎日のように筆を走らせるフレデリック。
「些細で無意味なことを書いてから1週間が経ちました。」
コルベルクやノヴのことを姉に話したことを
謝るフレデリック…ルドヴィカにはルドヴィカの悩みがあることを知っているフレデリック。
話題を変えるフレデリック、「今日、
私はまたパリでひとりになりました。
サンド夫人とソランジュと、いとこ
アウグスティヌスとルースは昨日パリを出発しました。」
養女のアウグスティヌスと使用人ルースも一緒にパリに来ていたのだ。
「それから、もう三日経ちました。
昨日、ノアンから手紙が来て、みんな元気です。
私たちがパリにいるように、ノアンの雨の日を除けば皆んな陽気に過ごしているそうです。
数週間前ですが、毎年開かれる絵画と彫刻の展覧会がパリで開かれました。
一流の芸術家の中では特に目立つものはありませんが、
いくつかの真の新しい才能、特に彫刻家が現れました。
彼はクレサンジェという名で出品したのはわずか2年目です。」
ソランジュとのことは直ぐには触れていないフレデリックは続けた…
「トマ・クチュールという画家の巨大な絵は
退廃期のローマの宴会は大衆の注目を集めています。
彫刻家(クレサンジェ)の名前を書き留めておいてください。私はしばしば彼のことを言及することになるからです。
クレサンジェをサンド夫人から紹介されたからです。サンド夫人がパリを発つ前に
クレサンジェはサンド夫人とソランジュの
胸像を製作しました。誰もがクレサンジェを賞賛し、それらは来年展示されることになると思います。」
画家のトマ・クチュールと彫刻家のクレサンジェはこの年の1847年サンドの紹介で注目されるようになった。特に彫刻家クレサンジュを「よろしく。」と姉ルドヴィカに伝えたフレデリックだった。。。
トマ・クチュールは、
1815年12月21日フランスのオワーズ県サンリスに生まれ1879年3月29日イルドフランスのヴィリエ=ル=ベルで亡くなりました。
彼はフランスの歴史画家でした。
1826年、彼はサンリスからパリに家族で移住しました。彼は芸術工芸学校で学んだ後、パリの美術学校で学びました。
1830年、彼はアントワーヌ・グロス、
ポール・ドラローシュのアトリエに入りました。
彼はパリの美術学校での権威あるローマ賞のコンテストに6回失敗しましたが、
問題は自分ではなく、学校にあると感じていました。
その後、彼は1837年に賞を獲得しました。
1840年から、彼はパリのサロンで歴史画と写真を展示しました。
彼の作品は、退廃期のローマ人(1847)でいくつかのメダルを獲得し代表作となりました。
1840年代後半から1850年代に彼は、壁画について政府から教会の壁画の委託を受けましたが最初の2つは完成はせず、3つ目の壁画は批判に直面しました。彼は1860年にパリを離れ、故郷のサンリスに戻り、教師になりました。
彼の代表作のクチュール「衰退のローマ人」(1847年)はパリ、オルセー美術館に
現在所蔵されています。
この絵画は人気を博し、古代の英雄が道徳と贅沢の理想として機能したダビデの時代から古典主義が受けた進化を例示していると解釈されています。クチュールは、その他、
記念碑的な絵画や肖像画を描きました。(アルフレッド・ブリハ、1850年、モンペリエ、ファーブル美術館)彼の小さなスケッチは「クレイジー」、ルーアン、絵画陶磁器美術館に現在所蔵されています。)クチュールの最高の絵画「リトルバザー」は現在エルミタージュ美術館に所蔵されています。
彼はイルドフランスのビリエ・ル・ベルの城に住んでいました。彼はそこで亡くなりました。
彼はショパンと同じパリのぺールラシェーズ墓地に眠っています。
トマ・クチュール 自画像
代表作「衰退のローマ人」(1847年)
パリ、オルセー美術館所蔵
牡丹の花束
自画像
放蕩息子
金の渇き オーギュスタン美術館所蔵
フレデリック・ショパンの肖像画
ジョルジュ・サンドのスケッチ
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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