ルーヴル宮殿(現在のルーブル美術館)の北隣、サントノーレ通り204番地に位置する。その歴史はPalais-Cardinalと呼ばれていた宮殿は、ルイ13世の宰相であったCardinal Armand Jean du Plessis 第1 リシュリュー公爵 とフロンサック( 1642年12月4日-1585年9月9日)リシュリュー(フランスカーディナル・デ・リシュリュー ) ローマカトリックの聖職者であり、貴族、そして政治家だった、個人邸宅でした。
1629年建築家ジャックス・レマーシャーにより設計デザインをした。1633年竣工が始まるり約7年がかりで1639年に完成した。1642年にリシュリューが亡くなり、1643年ルイ13世に寄贈されたが、同年ルイ13世が亡くなり、1643年に当時5歳のルイ14世がルーヴル宮殿から移り住んだことで、パレ・カルディナル(Palais-Cardinal)からパレ・ロワイヤル(Palais-Royal 王宮)の名を獲得した。
そして、オルレアン家( Maison d'Orléans)の手に渡り、ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ1世(Louis Philippe II Joseph)が住んだ。建物は貴族や富裕層だけの集まりの場であった。庭園は若いルイ14世と彼の兄弟が遊ぶためのものだった。その後、リシュリュー時代の建物は取り壊された。
1649年に夜中に11才だったルイ14世は宮殿から逃げなければならなかった。暴徒は王を見て宮殿に侵入しパレードを要求した彼のベッドの前で数時間居座った。そのため、
王宮は放棄された。リシュリュー公爵の贈り物であり、唯一の王の住居に割り当てる義務があるには、書面なしと見なされ弁護士はその条項は執行不能と結論付けた。
よって、宮殿は、その小ささとその建物の品質によって、王に適した住居ではないと考えられ、その壮大さと素晴らしさを持つ唯一のルーヴル美術館は、王の威厳満たしているとされた。この推論の書状特許おかげで、1692年2月ルイ14世の兄弟に宮殿を与えた。
フランス革命前に王位を狙っていたオルレアン公フィリップ・エガリテ(フィリップ平等公)は、金貸し業者からの借金80万リーヴル(1780年当時)を返済するために、借金の抵当になっていたパレ・ロワイヤルの屋敷の庭園をぐるりとコの字を描くように建物を建て、商人たちに貸し出すようになった。
一階にはレストランや商店が並び、中庭にはカフェが出来て、商業施設が集まった。しかし、警察の立ち入りが出来ず、革命家のたまり場となっていた。そのため、
民衆の政治論議の場になり、娼婦や詐欺師や泥棒する人が集まり貧しい人たちで溢れるようになった。1789年7月12日の午後、「諸君、武器を取れ!!」と大きな声でカミーユ・デムーランが演説した場所もここであった。
フランス革命後は、劇場、賭博場、証券取引所、商事裁判所、高級アパートなど、変化を遂げ、1階回廊にカフェや、商店、ダンスホールなど、市民の集会や娯楽の場となった。
現在は文化省や国務院などが入る建物となっている。西側のリシュリュー館側がコメディ・フランセーズ。ブティック、画廊、骨董品店などが軒を並べ、気軽にウインドーショッピングが出来るようになった。
1986年に完成したダニエル・ビュラン作の白黒のストライプ模様の260本の円柱や、ポール・ビュリイ作のシルバーの球体が集まった噴水が中庭の広場ある。パレ・ロワイヤルの象徴となりフランス国民に愛されている。
ショパンはパレ・ロワイヤルの高級店の顧客だった。ショパンの衣装はここでオーダーメイドしていた。洋服以外は、ショパンのトレードマークだった白い手袋や帽子もここで最高の生地でオーダーメイドで作っていた。ショパンはサロンに出入りするための衣装を秘書であり友人のジュリアン・フォンタナに指示し、ショパンの住むアパルトマンでサイズの採寸をし注文し、フォンタナに運ばせていた。
ジョルジュ・サンドが出入りしていた有名なカフェが現在もある、ル・グラン・ヴェフェール フランス料理 Le Grand Véfour 17 Rue de Beaujolais Paris, France ランク★★
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