2019年1月19日記事から【88鍵の余韻〜マルファッティのお祝いとショパン〜】をお届けします

ショパンは1831年1月の初め、1か月後にはパリにいる自分を想像していた。
しかし、思いの外、ウィーンを出国するまでにショパンの予定はそれから半年以上もかかっ
た。ショパンの頭の中にはすでにイタリア行きはなくなっていた。
ウィーンからの出国手続きはポーランド人であるという理由で人種差別的扱いをショパンは
受けていた。旅券はすぐに発行されず、毎日のようにたらい回しにされたあげく、
ショパンの旅券は役所で紛失していたため、ショパンは最初の手続きから申請をやり直しさ
せられ、そのうえ、いつ発券されるかわからない状況であった。
ポーランド人は皆がそういう目に遭っていた。ウィーンからなかなか出ることが許されず、
困っていたショパンはコンスタンス・バイエル夫人の忠告を聞き入れ、イギリス行きの旅券
を取ることにした。
ショパンはイタリア行きを断念したかのようにみえたが、ショパンはパリの7月革命を機にテ
ィトゥと意を決してワルシャワ出発を決行したのだ。つまりショパンは最初からパリが
目的地であったのだ。
出国が遅れながらも、ショパンは医師のマルファッティの誕生日に招かれていた。
ショパンはマルファッティの邸宅でロッシーニのモーセの四重唱の指揮をさせられた。四重唱のメンバーは、ヴィルト、チャチマッラ、エメリンク譲、ルツァー
譲、ショパンは自分は合わせるのが上手いので上出来な演奏であったと、ウィーンの指揮
者よりも自分の方が上手だと密かに思ったのであった。
そして、その晩の四重唱をお世辞で褒める一方で、ワルシャワの告別演奏会の時のコンスタ
ンツェの歌声の方が比較にならないほど見事であったとショパンは思った。
マルファッティの邸宅は庭には噴水があり、テラスに面した大きな掃き出し窓からは、花々
の香が漂って、部屋のあちらこちらに鏡があり、サロンに隣接した細長い書斎が邸宅の雰囲
気を一層素晴らしく演出していた。テラスからはウィーンが一望でき、ショパは知的で優雅
な時間を過ごした。マルファッティの妻はポーランドの貴族の家柄であった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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