フレデリックはルドヴィカへ書簡を書き始めてから二週間以上経過していた。
「昨日、ヴュータンは2回目のコンサートを行いました。私は行けなかったのですが、
今日、フランショームの話によると、ヴュータンは信じられないほどの演奏をしたそうです。彼の新しい協奏曲も素晴らしかったと私に話しました。
ヴュータンは2日前に彼の妻と私に会いに来て、私は初めてヴュータンの演奏を聴きました。」
この時、ヴュータンはパガニーニの後継者としてパガニーニが亡き後、ヴァイオリンの名手としての地位を不動のものにしていた。
彼はショパンより10歳歳下の27歳で、
妻のジョゼフィーヌと結婚して3年経った頃だった。妻のジョゼフィーヌはピアニストでウィーンで生まれカール・ツェルニーに学んだ経緯を持っていてロベルト・シューマンとも親交があり、シューマンの妻クララと共演するなど演奏活動は順調だったが1835年銀行家との結婚は長続きせず離婚、その後、彼女はヴュータンと再婚し、彼の演奏活動に同行するようになって来ていた。ヴュータンはこの時、ロシア、サンクトペテルブルク音楽院の教授になり、ショパンが断ったロシア宮廷音楽家として活動していた。既にアメリカツアーも成功させていた彼だった。彼もまたシューマンと友人であり、その彼が
わざわざなぜ何故ショパンと会ったのか、ショパンとしては避けて当然の2人だった。
銀行家レオの計らいなのであろう、ショパンの親友でパトロンのレオの誘いは断れなかったショパンだ。
ショパンはアメリカに興味があったことも
2人と会う動機になっていた。
ルドヴィカに書簡の続きを書き早速報告した
フレデリック、
「私は彼のコンサートに行くべきでした。
しかし、昨日のレオ(銀行家)の夕食後、彼らは私をテーブルに招き、16年間アメリカ中を旅してきた画家のアルバムを見せくれました。私は素晴らしい機会を避けることは出来ませんでした。しかし、一度に検討するには資料が多すぎました。」
アメリカへの亡命を密かに考えてきたショパンの目にアメリカの写真はどう目に映ったのか、一度に観るには多すぎたとルドヴィカに
伝えるフレデリック…
「スペインの劇団が来て、今日は、ジャン・ラシーヌ( 劇作家で詩人の フランス人)の《アタリー》を宮廷で公演することになっています。女優のトゥデー・ミール・レイチェルが演じます。彼女は素晴らしいと言われています。
スペインの王妃 (マリア・クリスティーナ) がい今パリに来ています。
私は《アタリー》をまだ観てません。そして、明日はパリのイタリアオペラ座の総見があります。
最後にゴセック(作曲家)の合唱も上演されます。彼は有名で尊敬されているフランスの前世紀の作曲家です。
後の時代には、決まって彼の「アタリー」終わりに合唱(かなり退屈なもの) が付き、ハイドンの素晴らしい合唱を加えていました。」
ショパンはゴセックのことは有名人で
尊敬されているとしながらも、
かなり退屈な曲だと作曲家の視点からシビアにルドヴィカに話した。
「ゴセックがそれを作曲してから、もう35年も経ち、彼は老人になって、この曲を聴き、彼は非常に簡潔に“私は何も覚えていないのです。それを書いた記憶がありません。″
私は彼を信じるのは簡単でした。」
フレデリックはなぜ信じるのが容易だったのか、作曲家が忘れるはずはない、ゴセックは本当は書いていなかったことをショパンは自分のことに照らし合わせて納得したのであった。そして、ヴュータンの演奏を素晴らしかったと言っているのは、フランショームの感想であり、フレデリックはヴュータンの演奏を初めて聴いたと書いているが、ヴュータンの演奏に対しての感想は何もなかった。
フレデリックがコンサートへ行くべきだったと思ったのは、他の目的があっからだった。。。
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✳︎ジャン・ラシーヌ( 1639年12月21日ラ・フェルテ・ミロン-1699年4月21日パリ)
フランス人の劇作家・詩人
代表作・悲劇「アタリー(ラシーヌ)」
✳︎レイチェル・フェリックス(女優)
1821年2月 21日 ムンプ(スイス)-1858年1月 3日 パリ
✳︎フランソワ=ジョゼフ・ゴセック(1734年1月17日 フランス・ヴェルニー- 1829年2月16日フランス・パッシー)
オペラ、弦楽四重奏、交響曲、合唱曲
ベルギー出身のフランスの作曲家・指揮者
バロック音楽から初期ロマン派
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【アンリ・ヴュータンの肖像画より
ジョセフ・クリーフーバー
(1800年12月15ウィーン‐1876年5月30日ウィーン)
オーストリアの リトグラフや画家。
若者としてのアンリ・ヴュータンの肖像; ヨーゼフ・クリーフーバーによるリトグラフ、1834年】
アンリ・ヴュータンまたは、
アンリ・フランソワ・ジョセフ・ヴュータン
生まれ: 17 - 2月- 1820年 2月17日
ベルギー・ヴェルヴィエ- 1881年6月6日
アルジェリア・ムスタファ)
ベルギーのヴァイオリニスト、作曲家
彼は1820年2月20日にヴェルヴィエで生まれました。
彼は貧しい家庭に生まれました。彼の父は羊毛紡績工員でした。彼の兄はマンチェスターのハレ管弦楽団でチェロ奏者にりましたが、生活が苦しかったため父親は楽器を作る職人になりました。そして、ヴュータンは、5歳のときに父親に連れられて、ヴァイオリニストのシャルル=オーギュスト・ド・ベリオ(1802年2月20日 - 1870年4月8日)のところへ置いていかれました。彼は1829年にヴァイオリニストとしてデビューしました。彼はヨーロッパ中を旅する機会があり、パリでアントニーン・レイチャから作曲を学びました。彼はピアニストのジギスモント・ダールベルクと共にアメリカツアーを成功しました。
その後、ヴュータンはモスクワでのヴァイオリン教師になりました。彼は皇帝の宮廷で最長6年間演奏しました。
その後、彼は故郷に戻り、ブリュッセルの音楽院で教えました。
1873年に彼は体の左側の麻痺による脳卒中に苦しみ、演奏を続けることができなくなり、パリで隔離された生活を送っていました。1879年から、彼は彼の義理の息子エドゥアルド・ランドウスキーによって運営されていたアルジェ(ムスタファ・シュペリウール)近くの療養所で彼の人生の最後の年を過ごしました。
彼ははアフリカへの旅行でアルジェリアで亡くなりました。
作品には、
ヴァイオリンのための6つのコンサート、
3つの弦楽四重奏、
いくつかの幻想曲、など、
彼のヴァイオリン協奏曲第1番は、
1840年サンクトペテルブルクで2回演奏し成功を収めました。1841年パリで演奏し、ベルリオーズによって称賛されました。
彼はシューマンと友人でした。
1881年6月6日にアフリカのアルジェリアのムスタファで亡くなりました。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
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