予定より何か月も遅れてやっとウィーンを出国出来たショパンであったが、
ザルツ゚ブルクで友人のクメルスキと学問と好奇心を満たすための社会見学を兼ねて数日間滞在したり、ミュンヘンで、毎日のようにオペラ鑑賞に通ったり、自分の演奏会を開くなどで、目的地のパリへなかなか辿り着かないショパンであった。
ショパンは父のニコラから受け取っていたお金が底を付いていた。
父ニコラから、ミュンヘンで長居をしてお金を使うことのないよう倹約を忠告されていたショパンであった。
ウィーンを発つときに、ショパンは父ニコラから300グルデン(現在のおよそ130万円)と銀行
家のステイン氏から450グルデン(およそ200万円の借金)を借りていた。
しかし、ショパンはそれでもお金が足りないのでミュンヘンの滞在地へ更に送金をして欲し
いと父ニコラに頼んでいた。
馬車での移動の交通費、宿泊費や食事代、演奏会のフィルハーモニア協会のサロンを借りる
費用、宣伝費その他、評論家の諸先生に支払う費用などで出費は更にかさんだ。
それから、当時はオペラの鑑賞といえば貴族の社交の場であり、ショパンも当時の衣装には
かなり気を遣いお金をかけていたこともショパン家の経済を苦しませた。
例えば、ジョージ・ブライアン・ブランメル1778年6月7日 – 1840年3月30日は、当時のフ
ァッション界のリーダー的存在で、フロックコートやスーツの基本である黒を考案し、非
の打ちどころのないファッションでいつも身を固めていた。しかし、見栄を張りすぎ借金が
かさみ、晩年は困窮し投獄された。
このように、当時の流行のファッションは1着1着がオーダーでもあり、一般庶民の財産を
破綻させたのだ。
ミュンヘンで、お金に困っていたショパンは初めて入場券を販売する演奏会を開催し、
出演した。しかし、「選り抜きの人がこぞって足を運んだ」という記録があるため、
実際にはショパンの招待者だったのであろう。このときショパンに収益があったかは不明で
、ショパンの親からの仕送りと銀行からの借金を鑑みると赤字であったのではなかろうか。
その証拠に、ショパンは演奏会の28日以降、父ニコラからの送金を30日までミュンヘンで待
っていたからである。
その後のショパンとクメルスキの足取りは、9月12日ショパンはフランクフルト・アム・マイ
ン経由でシュトゥッガルトに到着、15日シュトゥッガルトからマンハイムへ向けて出発した
と、ヨーゼフ・クリスティアン・シュリッツ(1781-1861)シュトゥッガルト市議
会事務総長はクリスティアン・ルートヴィッヒ・アウグスト・フォン・フェルナーゲル男爵
に機密情報として報告している。しかしながら、
ワルシャワ陥落9月7日8日をシュトゥッガルトで16日の「シェベービシャー・メルクー
ア」が新聞の特別記事で報じていることや、ショパンは16日の日記で今までのことは全
く知らなかったと家族やコンスタンツェ、友人の名を叫び、絶望と嘆きと悲しみと怒りの感
情を日記にぶつけている。
つまり、ショパンは16日にシュトゥッガルトで新聞を読んだことになる。
ショパンはシュトゥッガルトで15日、ピアニストのルートヴィヒ・シュンケ1810-1834(パリに遊学中のピアニストでカルクブレンナーに習い、ベルリオーズに認められた)のパリの
住所を、作曲家で演奏会の企画に携わっていたペーター・ヨーゼフ・パイントナー(1791-
1856)からメモ書きを受け取っている。(第二次世界大戦で失われたが記録が残っている)
ペーター・ヨーゼフ・パイントナーがショパンの演奏会をシュトゥッガルトで企画した記録はない。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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