2019年7月31日記事から、【フレデリックの心と電信技術】をお届けします

1760年代から始まっていた産業革命は1830年代になると急激な変化を遂げていた。
1825年には蒸気機関車式の鉄道は、ヨーロッパやアメリカ諸国へと広まり、中でも輸送システムが激変した。産業革命は比較的緩やかに進んでいたフランスであったが、1830年代に既にアメリカ・フランス・ドイツ、ロシアでも鉄道が開通していた。こうしたことから1840年代は産業革命の真っただ中であり、鉄道では列車の運行状況を把握するために、電信技術を発達させる必要性に迫られたのでした。
ショパンもノアンに居ながらにして、そうした世の中の移り変わりに敏感に反応していたひとりであった。ノアンに新聞配達が来たかは不明であるが、ショパンはパリから弟子のグートマンに新聞を送ってもらっていたのではないか。
そのニュースをワルシャワの家族へ伝えるショパンであった。
「バルチンスキ(イザベラの夫)に教えてやってください。ボルチモアとワシントンの間の電信が素晴らしい成果をもたらしているのです。
よくあることですが、ボルチモアから商品を発注すると、小品や小包は3時までに発送準備が整います。ワシントンを4時半に発注すると5時の汽車で発送されバルチモアに7時半着です。
イギリスマイルで73から75マイル、フランスマイルで25マイルです。
この、スピードについてはあなたはどう思いますか。」ショパンは電信が急激に進化しているアメリカの様子をこのように姉ルドヴィカに伝えた。
そして、更に、「ジェドルジェジェヴィッチ(ルドヴィカの夫ヨゼフ・カラサンティ・ジェドルジェジェヴィッチ)とあなたに会って早いもので1年が経ちます。
まるでそれは、電信電話のように速い1年でした。」ショパンはなぜだかアメリカの話をルドヴィカに伝えた。(磁気電信会社が1845年5月15日に設立された)
ショパンがアメリカにいるフォンタナからもしかしたら手紙を貰っていたのかもしれないのだ。
そして、誰かに読まれることを想定したかもしれないショパンは、
「僕の手紙がでたらめだとしたら、それは僕が毎日文章を追加するからだ。
昨日、ソランジが僕と一緒に二重奏をしようと言い出し、僕は書簡を書く邪魔をされました。今日は一本の倒れた木を見に行くことになっていました。
隣の庭の住んでいたシャイニーという人の小屋の近くにあった木です。」
ショパンは1年前にルドヴィカ夫妻がノアンへ駅馬車で降り立った場所にあった思い出の木が枯れてしまったため、伐採されてしまうことを残念そうに書いた。
ノアンの木が枯れるようにショパンはノアンでサンド一家と毎年夏を過ごす心も枯れたことをそれとなく姉ルドヴィカに漏らしたフレデリックだった。

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