ドラクロワのスケッチより、ショパンの肖像画1848年
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「 今日は19日です。昨日、ノハンからの手紙が届いたのであなたへ書簡を書く邪魔になりました。」
ルドヴィカへのフレデリックの書簡は
書き始めてから既に3週間経った。
中断しながらも毎日のように書き溜めた
書簡も曲ならば、いよいよコーダ(終結部)に入ったといったところだ。
「サンド夫人 は来月末ここに(パリ)に来るから、パリでサンド一家を待つべきだと私に言って来ました。
ソランジュの結婚 (ただし、私があなたに書簡で書いた婚約破断になった若者ではありません)のことに間違いなく全てが繋がっているのです。
神が彼らに最高のものを与えてくださいますように。サンド一家の最近の書簡によると、
みんな元気そうですから、きっとうまくいくと思います。もし誰かが
幸せになるに値するならば、それはサンド夫人です。 . . .」
なんと、ショパンはサンドに自分の暴露本を書かれて憤慨するどころか、ショパンはサンドが幸せを勝ち取るであろう、とルドヴィカへの書簡で結論を語ったのだ。
それはまるでショパンとサンドの人生の結末を予告するかのような不気味な音色が聞こえて来るショパンの発言。。。
そして、最後に、
「私はあなたに私の愛を送ります。
ノワコフスキはもう家に着いたに違いありません。」パリに来ていた友人ノワコウスキはポーランドに帰ったのだ。
「僕はティティウスを抱きしめます。
ティティウスの近況とドレスデンの人々のニュースをあなたから私へ送ってください。
ローラ伯爵夫人はドレスデンの旅へ行きました。ドレスデンから彼女は私に手紙を書いてきました。メリー[ウィトヴィッキ]はローマから私へ手紙を書いてきました。
メリーはゾフィア・ローゼンガルトの居るイエール(フランス・プロヴァンズ)に行くと言っています。
ゾフィアは元気で幸せだと私に手紙をくれました。
私の愛をママと皆さんへ送ります。
F.ショパン」
ショパンのポーランドの旧友ノワコフスキはパリでショパンとの友情を確かめ合ってからポーランドへ帰った。
親友ティティウスはこの年1847 年にポーランドの国内初の砂糖工場を設立していた。
ノアンを訪れたことがあったルドヴィカの友人でショパンのワルシャワ音楽院時代に一緒にフランス語を学んだことのあるローラ伯爵夫人はドレスデンへ行っていた。ドレスデンの様子はルドヴィカへローラ夫人が書簡を送り、ルドヴィカからパリのショパンへ報告するという算段なのだ。
ゾフィア・ローゼンガルト(1824−1868)はショパンの旧友ザレスカ(ユゼフ・ボフダン・ザレスキ ・プラウジッチ1802−1886)の妻のことだ。
そして、パリに来ていた友人メリーとは、
ポーランド詩人のウィトヴィッキのことだ。ショパンは彼を「メリー」と呼んでいた。
彼はパリを離れた後、ローマに行き、ローマからショパンへ手紙を書いて送って来たのだ。(書簡は現存しない)
ステファン・ウィトヴィッキ(ポーランド詩人でワルシャワ時代のショパンの友人1801 年9月13日 - 1847年4月15日)、ショパンがルドヴィカへこの書簡を書き終えたのは47年4月19日だった…。ショパンはメリーがローマから旧友の居るフランスのプロヴァンス地方の最南端にあるイエールで静かに暮らそうとしていると信じていた。
ショパンはこの4日前にメリーがローマで亡くなっていたとは全く知らないのだ。
パリからノアンまでの郵便が片道1週間かかった時代だイタリア・ローマからパリはいったいどれだけ掛かったのか、、ショパンはいつ知ったのか…。
長い長い終わりのないルドヴィカへの書簡はようやく完成した。
弟子のロゼールからグートマンに渡されて、
そこからワルシャワの家族へ書簡は旅しながら届けられたのだ。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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