2019年1月28日記事から、【ショパン、華やかなパリとショパンの孤独】をお届けします

ショパンのデビュー演奏会は(1832年2月26日)多人数が出演する演奏会であった。しかし、
その演奏会はショパンは無料で演奏するどころか、出費が嵩み1円も儲けがなかった。
父からの相変わらずの仕送りで生活していたショパンは父ニコラからオペラを
書くようにという多大な期待と励ましの言葉と、そうかと思えば、お前は1円の稼ぎもないか
ら一人前でないという厳しい現実も忠告され、パリの音楽界で生きて行こうとするショパン
はこの矛盾に苦しんでいた。
ショパンはオペラは諦めきれていなかった、パリに来てからも、毎晩のようにオペラに通
い、最新のオペラの舞台芸術を堪能した。また、ショパンは、
出演する歌手の一人一人の特徴や個性、実力はどんなものかを驚くほどよく熟知していた。
ショパンは自分の創作のことをいつも考えてたのであろう、オペラを書くようにショパンに
期待していたエルスネル先生に、ショパンはエルスネル先生のオペラ〈ロキテーク〉〈小人
の王様〉に自分の芸術も少しでも近づきたいと思い、ポーランドの王様の話をオペラにする
ことを考えていたショパンであった。
ショパンのデビュー演奏会の前の12月のことである。ショパンはワルシャワの婚約者で歌
手のコンスタンツェが結婚したことをコンスタンツェからの手紙で知らされる。
ショパンは気が狂いそうな気持ちになり、友人ティトゥスにパリに早く来て欲しいと懇願し
た。
ショパンはパリ独特の暗い雨の日にはひとりアパルトマンの小さな部屋でホームシックにな
る日もあった。
コンスタンツェと指輪を交換したことや彼女の美しい歌声も姿もショパンは頭から離れたこ
とはなかった。ショパンはティトゥスにコンスタンツェに伝えてほしいと言った。
「コンスタンツェは結婚した、けれど、私たちのプラトニックな愛情は終わらない」
「コンスタンツェ、僕を今まで通り愛してくれ」
ショパンは、思った、コンスタンツェが結婚したのはやむを得なかったのだ、コンスタンツ
ェは戦争でどんなに辛い思いをしたであろう、
自分は売れない作曲家、コンスタンツェはパリに来ることは出来ない、親が決めた結婚は仕
方がない、ショパンは自問自答したのであろう。
ショパンは自分の不甲斐無さを責めていた、ちょうどその頃だった。
ピキシスが自宅にマリアが来ているからショパンも来ないかと誘われた。
マリアはショパン家がスカルベックの借家にいた頃にスカルベックの本宅に住んでいたこと
があった。
戦争でマリア一家がシュットガルトのピキシスの家に逃れてきていたときに、ショパンはピ
キシスの家でマリアに会ったことがあった。
そのマリア一家とピキシスの手引きでショパンはパリに入ったのであろう、
パリのピキシスの家でマリアと再会し、戦争から無事に逃れ生きていたことに二人は打ち震
えて喜んだ。
ピキシスはマリアと結婚したいと思っていたかは定かではないが、マリアがショパンに親切
な様子を見て、ピキシスがやきもちをやいたのではなく、ピキシスはショパンに用心深く振
舞わないことを忠告したのであった。
ショパンが戦争から逃れることを手伝ったピキシスは、それ以降、ショパンに関してに関わ
らないようにした。
マリア一家もドレスデンに戻ることになり、パリで貧窮な生活に限界を感じていたショパン
はマリアと結婚したら一緒にドレスデンに住めると考えたのであろう、しかし、ショパンの
名前がショパンスキでないことなど、ポーランド人の家柄が問題でマリアとショパンの偽
装結婚は不可能であった。
スカルベックの借家時代から父ニコラはポーランドに来たことがあったピキシス一家と知り
合いだった。マリア一家ともショパン家も知り合いであったたため、父ニコラが息子ショパ
ンのことを頼んであったが、パリに逃れたショパンを手伝ったピキシスとマリア一家、その
関係はお互いの身のためにいずれは終わらせなくてはならなかった。

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです  

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