F.Chopin、ショパンの決心

ノートルダム・ド・ロレット教会の
ステンドグラスの窓
マニュファクチュール・ド・ヴァンセンヌ
の技術によって1830年代から製作された
(マニュファクチュール・ド・ヴァンセンヌ
1740年フランスで4番目の磁器工場、パリ郊外のヴァンセンヌ城に設立)
ピエール・クロード・フランソワデローム(1783にパリ−1859年)フランスの 古典主義の歴史画家の聖母被昇天から

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ソランジュになぜショパンはこんなにも関わろうとするのか、ソランジュはノアンで生まれたことになっているがソランジュの出生の秘密は謎に包まれている。フレデリック・フランソワ・ショパン自身もジョルジュ・サンドの説によると捨て子だ。しかし不思議なことではない、ショパンの生まれは1810年3月1日または2月22日、1809年と3種類もの説があるのだ。
スカルベック伯爵邸宅の納屋で生まれたことも不自然だ。当時は捨て子は珍しくなかった。どういう因果かショパンの妹イザベラは11月蜂起後から孤児院を夫カラサンテと共に国から任されることになる。
サンドはポーランドの田舎の孤児院を訪ねていたことがある。サンド自体も出生の秘密があることをショパンはだんだんと知り、
ショパンの出生の秘密をサンドは知り、
ショパンはソランジュを愛していたというより同士的な共通の同情心を抱いていたことになる。
ショパンとルドヴィカが本当の姉と弟だったのかも謎であるが、ショパンはルドヴィカを崇拝していた。
ショパンはいつもルドヴィカへの書簡が長いのだが、ソランジュの結婚のことを書き足りずルドヴィカへ知っている限りをありったけ書いた。
「ソランジュは既婚者であることに満足していて、カシミアのショールを持つようになり乗馬を楽しんでいます。
しかし、私は知っているのですが、サンド夫人は借金を抱えていますから、ソランジュにもしも最初の子供が生まれたら1年も経たないうちにノアンの館に一緒に住まわせないと思います。」
ソランジュが高価なカシミアのショールに騙されて浮かれているのも最初だけだと
ショパンはサンドの借金問題を指摘した。
「…クレサンジュとソランジュはノアンのサンド夫人の家で生活していることを恥に思い、私に書簡で書いてきたのです」
お金がない新婚夫婦のクレサンジュとソランジュは始めはサンドが2人をたぶらかすために
買い与えた目先の物に誤魔化されていたが、実際は物価が高いパリに住むには収入がない2人は、サンド自身がお金がないため、
ノアンを出ていくにはどうしたらいいかソランジュはショパンに泣きついて来たのだ。
ショパンのことだからソランジュには助言をしたであろう。ショパンは更に続けて書いた。
「私はその事に関して、幾つかの手紙をもらいました。モーリス(サンドの息子)の方は
ある面では愚かな義兄(クレサンジュ)を得ただけでなく、クレサンジュを利用することができる上に、モーリスの父親であるデュデバン氏はソランジュに一銭も持参金を与えていません。
つまり、モーリスはさらに多くのお金を得ることになります。」
サンドの別れた元夫デュデバン氏は息子モーリスは可愛がるが、娘ソランジュは何故か可愛がらなかった。
このままではソランジュがゆくゆくはひどい目に遭わされることになることをショパンは案じた。
更にショパンは新情報として、サンドの養女オーギュスティーヌがテオドール・ルソーと結婚することをルドヴィカに話した。
モーリスはオーギュスティーヌに結婚の約束をしていたがオーギュスティーヌがその気になったとたんにモーリスはオーギュスティーヌから逃げてしまったことも原因だった。
モーリスはオーギュスティーヌとのことはからかっていただけで遊びだったのだ
クレサンジュとルソーは同じアパルトマンに住んでいた、サンドは一石二鳥を狙っていたが、オーギュスティーヌとルソーの結婚はこの後、破断になった。
サンドのいつもの企みでルソーをノアンにおびき寄せオーギュスティーヌと合わせたが、
ソランジュとモーリスとで妨害したのだ。
それは、サンドがルソーにオーギュスティーヌと結婚したら10万フランの持参金を用意するとルソーに言ったからだった。サンドがお金がないとは知らないルソーはお金に目が眩んだが、ソランジュとモーリスの嫌がらせに遭い、オーギュスティーヌもよく見たら美人でもないことに目が覚めノアンからさっさと逃げたのだった。
ショパンはサンド一家の騒動をあれこれと事情を説明した後、
やっとルドヴィカへ自分の心境を打ち明けた。
「ソランジュとクレサンジュの結婚を知らせる札がパリのノートルダム・ド・ロレット教会とパリ市長室に掲示されました。
それが終わるとすぐにサンド一家はまたパリからノアンへ戻ることになるでしょう。
私は彼らと一緒にノアンへ行くかどうかはわかりません。
正直言って、私はもうノアンへ行きたくありません。
サンド夫人とモーリスとソランジュは別として、私は新しい顔ぶれに慣れなければなりませんが、それはもう充分です。」
ショパンはルドヴィカに話しているうちに、自分はノアンに行きたくないのだという気持ちがはっきりとしたのだ。
ショパンはクレサンジュに会いたくないのだ、その上、養女オーギュスティーヌまで加わり、
更には、使用人も知らない人ばかりになった。
使用人のことは、サンドが主人である限り、またいちから揉め事が起こることは間違えないのだ、ショパンはその仲裁役にもう疲れて懲り懲りだった。
「ノアンでルドヴィカが知り合った使用人の人たちは、誰一人として見かけることはありません。ここだけの話ですが、サンド夫人の旧友は皆、このソランジュとクレサンジュの異常な結婚を認めていません。
結婚式には誰一人として呼ばれていません。」
ソランジュとクレサンジュの結婚を一番認めていないのはショパン自身だった。
ショパンはパリ9区にあるノートルダム・ド・ロレット教会へひとり行き、結婚を公表する掲示板の前に立った。すると教会の鐘の音が鳴り響きステンドグラスの聖母被昇天画がショパンの灰青色の目に眩しく映った、
ショパンは少女ソランジュとの思い出にさよならを告げた。

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ノートルダム・ド・ロレット教会
19世期頃
ノートルダム・ド・ロレット教会
現在
【ノートルダム・ド・ロレット教会】
カトリック教会、 パリ大司教区
工事の開始 1823年−工事の終了 1836年
建築家 ルイ・イポリット・レバス
 新古典主義建築
パリ9区にある新古典派の教会
ルイ 18 世の統治下で 1823 年に建設が始まり、ルイ ・フィリップ王の統治下の元、
 1836 年に完成した。
作曲家ジョルジュ・ ビゼー(1840 年 3 月 16 日)画家クロード モネ( 1841 年 5 月 20 日)が洗礼を受けている




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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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