1841年4月マリー・ダグーとサンドの女の戦いは続いていた。
マリー・カトリーヌ・ソフィー・ド・フラヴィニーはリストの愛人マリー・ダグーの本名。
ダグー夫人で名前が通っていたが、ダグー伯爵との間には二人の娘を儲けたが1835年に
ダグー伯爵とは既に離婚していたマリーだった。(前回までダグーと呼んでいたがここからはマリーと呼ぶことにしよう)
リストとは愛人関係であって身分の違いで結婚はしていないマリーだったが、リストとの間にはブランディーヌ(1835年 - 1862年)、コジマ(1837年 - 1930年)、ダニエル(1839年 - 1859年)の1男2女を儲けていた。
マリーはフランクフルトの移民のフランス貴族のアレクサンドル・ビクター・フランソワ・ド・フラヴィニー子爵(子爵は伯爵の下位で男爵の上位)(1770-1819)と彼の妻マリア・エリザベス・ベスマン(1772-1847)の娘として生まれた。
一方、サンドは情婦だった母親と軍人貴族の父(スペインで戦死)との間の婚前妊娠子として生まれた。サンドはカジミール・デュドヴァン男爵と結婚し2人の子供を儲けたが離婚。
マリーは恐らく自分はサンドよりも家柄の出がいいと思い込みたかったのであろう、
サンドが世話をするショパン、この二人の活動が上手くいくたびに、プライドの高いマリーは神経を逆なでされるのである。
しかし、4歳で父親を亡くしたサンドにしてみたら、自分の生まれや家の出のことはマリーと競争してみたところでどうにもならないことであることをある意味悟っていたのだ。サンドのそういう生き方をパリでは冷ややかに風刺されたりもしたが、良くも悪くも自由奔放と人々は捉えていた。
しかしながら、マリーが離婚した原因はサンドに唆されたことが原因していた。
サンドのお古であるリストを押し付けられたマリーは断ることを知らない見栄っ張りであった。それでリストの愛人になったマリーだった。しかし、サンドに騙されたマリーは日を追うごとに自分の置かれた現状のこの不満はサンドのせいであるとイライラするようになった。
そのことを、マリーはリストに当たり散らしていたが、リストには愛人はマリーひとりでなかった。言い寄る女がたくさんいたリストは、少々マリーが駄々をこねたところでリストはどうということはなかった。
リストは15歳の時、パリからハンガリーへ旅の移動中に父親を亡くしている、それは粗末な粗部れた納屋で父親が死んでゆく様をどうすることもできなかった15歳の少年リストだった。その苦境を乗り越え自分で生計を立てて来たリストにとって女のひとりやふたりの些細ないがみ合いなど痛くもかゆくもなかったのだ。
「ショパンとサンドは適当にあしらっておいてやるよ」とマリーをいつもなだめたリストだった。
それから5か月後の、1841年5月のことだった。パリにやって来た頃はパリ音楽院に人種差別で入学できなかったリストであったが、この時は、音楽院でリストは自作の曲ではなく、ベートーヴェンの曲目で演奏会に出演した。マリーはこのことを自分のことのように自慢した。マリーがマルリアニ夫人に取り入りマルリアニ夫人から音楽院への働きかけがあったのであろう。
そして、サンドはリストの演奏会の成功が妬ましくて、ショパンのプレイエルでの演奏会を計画したのだとマリーは思い込み、マリーはサンドとショパンを中傷し妬んだ。
サンドとマリーは相変わらず、どちらもどちらなのだ。
ショパンのリサイタルがパリのプレイエル奏楽堂で開く日が近づいて来ていた。
サンドは、久しぶりにお金が儲かるのではと毎日がうれしくてしょうがなかった。
しかし、歌手のポーリーヌに出演依頼を断られたショパンは、その他の出演者の調整にも追われ、演奏会を延期にしたいと頭を悩ませていた。
サンドは、ポーリーヌに出演を断られたことで、「あなたが断ったことで準備がたいへんだったが、あなたが出演しなくても、チケットの4分の3は発売日の前に既に売れましたよ!」とポーリーヌの出演の断りに対して強気の返事を書いて出した。
サンドのこういう挑戦的な性格がマリーの神経を逆なでしてきたのであろう。
ともあれ、グランドコンサートと称した、ショパンとサンドの企画による演奏会は実現するのであった。
ポーリーヌの代役を急遽引き受けてくれるような売れっ子のプリマドンナはいなかった。
出演を引き受けてくれたのは、その頃、ロンドンのハーマジェスティーズ劇場、パリオペラ座、パリのオペラコミック座の国立劇場でプリマ・ドンナとして既に活躍してきたロール・シンティ・ダモール夫人(当時40歳)にショパンはひざまずき出演を頼んだのだった。
そして、ヴァイオリン奏者でパガニーニの後継者のハインリヒ・ヴィルヘルム・エルンストにもショパンは出演を依頼した。
この演奏会はショパンにとって悪夢であることをサンドはポーリーヌに「あなたがショパンからの出演依頼を断ったからですよ!」と明け透けに言った。
そして、ヴァイオリン奏者といえば、ショパンはウィーン時代の頃からの憧れていたパガニーニは前の年の1840年5月27日にフランスニースで57歳で亡くなっていたのだった。
つまり、このグランドコンサートはショパンとしては自分が理想とする出演者ではなかった
のだ。そのためショパンは憂うつだった。
ショパンの希望では演奏会はポスターもプログラムも何も作らず宣伝は全くしなかった。
ショパンとしては誰にも見られたくない演奏会だった。
ショパンは大勢の観客を望まず、ショパン自身の出演も最小限にして静かに本当は隠れていたかった。
そんなショパンの様子から、サンドは提案した。「非常に多くのことで、ショパンが演奏中に驚くことがないように、ろうそくの光もなしにして暗闇で聴衆もなし、鍵盤も音が出ないピアノにしてはどうですか…」と、
サンドは困っているショパンを面白がり冗談交じりに少々本気ともとれることをショパンに言ったのだった。
その頃、マリーはサンドとショパンがプレイエルで演奏会を開くことをどうにか阻止できないかとイラついていたが、リストの他、親交のあった画家のアンリへ報告をしていた。
「…何やらよからぬ事をたくらんで寄り集まった仲間が、ショパンを生き返らせようとしています。プレイエル奏楽堂でショパンは弾きます。サンド夫人から私は嫌われ憎まれています。私たちは、もう会いません。...」
実は、マリーのこの手紙の心理はすべてが裏返しである。
「ショパンのプレイエル奏楽堂のコンサートを何やらよからぬことで中止にしてください。私はショパンには生き返ってほしくないのです。
なぜなら、私はサンド夫人が嫌いで、私をこのように貶めたサンド夫人の事を私は恨んでいます。だから、私はサンド夫人にはもう会いたくないです。私がこの二人と付き合わないのだから、あなたもショパンとサンドに会わないでください。ショパンの演奏会にも行かないでください。」マリーはアンリに、こう読み取ってほしいのである。
女の嫉妬全開のマリー・ダグー。。。
マリーが陰湿に陰口をいくら叩こうとサンドとショパンもこうした邪魔を警戒し用心深くなっていた。
ショパンとサンドの企画したグランドコンサートは聴衆のすべてが招待客であった。
ショパンの演奏会はこうしてグランドコンサートと称して、ショパンとその他2人、
3人がかりで、ショパンが嫌う長い時間の大コンサートの開催となった。
1841年の4月26日、訪れた招待客は、宮廷王族などの上流階級の人々、リスト、ドラクロア、フランショーム、ミッキェヴィチ、忘れてならないショパンの賛美者ド・キュスティヌ侯爵も勿論訪れた。そして、その他のショパンの友人などでホールは埋め尽くされたのだった。マリーが来たかは不明であるが、リストがこのコンサートの評論を「ガセット・ミュジカル」に掲載したが実はマリーがリストのゴーストライターをしていたのだ。
内容はホールの豪華さのことで演奏については触れてないのはマリーは来ていなかったからなのだ。なんともいい加減な評論、リストとマリーがお金だけが目当てだったのが丸見えであるのだ。ショパンはいったいいくら払わされたのであろうか。
この時、ショパンが演奏した曲は、2年前に作曲した≪スケルツォ第3番≫と完成したばかりの≪バラード3番≫など(そのほか詳細は不明)であった。
この演奏会でショパンは健康状態も一時的に回復を見せていた。そして、好意的な聴衆に恵まれ演奏会は大成功を収めることが出来たショパンだった。
Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景
Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです
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