③ F.Chopin、ショパンの変わらぬポーランドへの愛、フォンタナよいつか一緒に帰ろう…

19世紀ニューヨークの高架を走る汽車のスケッチ画とフォンタナの写真から、イメージ
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ショパンはニューヨークにいる親友フォンタナと連絡を取り合っていた。
残されている書簡はわずかだがショパンがフォンタナに特別な挨拶がなく昔通りに話しかけている様子から、フォンタナがアメリカへ渡ってからも、ショパンはフォンタナの連絡先を知っていて頻繁に連絡を取り合っていたのかもしれない。
書簡がすべて現存していないためショパンの真意のすべてはわからないが、ショパンがポーランド情勢を把握していてフォンタナにポーランドへ帰る時は自分も一緒の時だと約束していたことが解るのである。
戦争でショパンは親友を失い、親友フォンタナとも離れ離れになり、家族ともポーランドを出国して以来早何年経つかわからない位会っていない。それでもショパンはポーランドに帰る事は選択せず、フォンタナにもポーランド情勢を鑑みて、まだポーランドに帰らないように説得したショパンだった。
仮に、母からの手紙がもう少し早くショパンに届いていたとしても、ポーランド情勢に詳しかったショパンは、パリに居てポーランドの家族を支えながらもポーランドへ帰る事は選択しなかったのではないか。
パリでの演奏会の後、ショパンが選んだのはイギリス、ロンドン行きだった。ショパンの健康状態は決して良くはならず、ドルレアンのアパルトマンのショパンの部屋へ続く2階(3階の事)の階段を行ったり来たりすることがショパンは困難になっていたほどだった。
それでもショパンはパリの悲惨な状況から、このままパリにいても音楽どころか生活すらもままならないと考えたのであろう。ショパンは、話を持ちかけて来たパトロンでもあるスターリング嬢からのロンドン行きの誘いに望みをかけることを選択したのだった。
ショパンは、ポーランドへ帰ることを諦めたわけではなかった。
パリを発つ前にショパンが書簡を書いた相手はニューヨークに居るフォンタナであった。昔に戻ったかのようにフォンタナへ話しかけたフレデリックだった。
「親愛なる友人エルボーを、まるで私の父か兄のように、そして私よりも優れた人物のように迎え入れてあげてください。
私がポーランドからパリに来て、最初に知り合ったのが彼でした。
私たちの学生時代の記憶によって、できる限り彼に心を寄せてあげてください。
彼はそれを望んでいます。彼はあらゆる面で、立派で、啓発された、善良な人です。」
ショパンはパリでの友人エルボーがアメリカへ渡ったため、フォンタナに自分達がポーランドの学生時代の時のように仲良くしてやってくれ、とフォンタナに頼んだ。
そして、
「あなたのハゲ頭にもかかわらず、彼はあなたを愛してくれるでしょう。あなたはなんて不機嫌な獣なのでしょう。
優しい言葉を一言も書いてくれないなんて。気にしないでください。あなたは
私があなたを好きなように、あなたも私を好きなのです。」ショパンは、フォンタナから返事が滅多に来なかったのか、寂しがり屋のフレデリックは昔のようにショパン特有の冗談混じりにフォンタナに話しかけた、
しかし、本当にフォンタナから返事が滅多に来なかったのであろうか…。
そして、
「そして今、私たちは今、ポーランドの孤児の仲間なのですから。ウォジンスキ、ウィトウィッキ、プラターズ、ソビンスキはみんな死んでしまった。
 あなたは今でも私の古き良きジュリアンです......これ以上何も言う必要はありません。
 親愛なる友よ、心よりあなたを歓迎します。」
ショパンは心の底から寂しかった、親友フォンタナをショパンは失いたくなかった。
そして、ショパンは、ジョークを書いた後で、フォンタナに詳しいヨーロッパ全土の世界情勢を付け加えて伝え、フォンタナには
パリにしばらくは戻らないように強く指示をした。
「ポーランドが再び立ち上がる前に、どのような事態が起こるかは神のみぞ知るであろう。…しかし、すべての終わりにはポーランドです。…ショパン」
…それから、15日経ちショパンは、パリで何が起きるかは想定できていた。
 二月革命の影響で芸術活動は停滞、情勢が悪いときに真っ先に排除されるのは画家や音楽家なのだ。画家も音楽家も想像以上の苦労を強いられ、ショパンの予測通りパリで6月蜂起が起きる。この時、ショパンの友人のアラゴが2月革命後の臨時政府で前執行政府首相(海軍・植民地大臣と陸軍大臣を務めた)になっていた。
蜂起は6月22日、1000人余りの労働者が政府執行役のマリに面会を求めてパンテオン広場に集結し、国立作業場の閉鎖を撤回するように請願。請願は拒絶されたため、その日の晩数千人の労働者は「パンか死か!労働か死か!」と政府に抗議デモを起した。
政府は国防相カヴェニャック将軍にパンテオン広場での反乱が起きないよう指令を出したが、パリ北部から東部の貧困地区60か所に6月23日反政府派の労働階級者がバリケードを築き、パリの民衆は大規模な武装蜂起を起こした。
前執行政府首相のアラゴは労働者に投降を呼びかけたが失敗に終わりアラゴは部隊に発砲を命じ、戦闘が始まった。この惨事は四日間
続き、パリ大司教も犠牲になった。
ブルジョワジー(中産階級)は政府側を支持し、反体制派の労働者(プロレタリア)による社会主義革命派と決裂した。そのため、
ブルジョワジーが優勢になり徐々にパリの街は戻っていったのだ。
ショパンとアラゴはノアンで1年8か月程前から知り合い、友達になった。サンドはアラゴをノアンに招いていたことがあったのだ。ショパンとアラゴはノアンから馬車で一緒に1日以上かかる道のりを一緒にパリまで帰ったことがあり二人は議論を交わしたことがあり、その後も交流していた。
……この6月蜂起が起きる前の4月中旬のことである。ショパンは主治医のモーリン博士に薬を処方してほしいと急いでいるかのように頼んでいた。
「明日の夕方に出発するための準備はすべて整っています。私は、あなたに会うことなく、またあなたの処方箋を持っていくことなくパリを離れたくありません。
だから、今日の巡回で1分だけ時間を割いてもらえないだろうか。
あなたの診療の料金に関して、私のメモ帳は見れない状況なので、あなたの診療の料金を教えてください。」
ショパンは健康状態が良くなかったが、パリ中の往診に忙しくしているモーリン博士に
1分でいいから診てほしいと頼んだ。
次の日にショパンは主治医の反対を押し切って、モーリン博士に処方してもらった薬を手に、パリから逃げ出すかのようにショパンは
ドーバー海峡を船で渡りロンドンを目指したのだった…。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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