2019年7月18日記事から、ディレクターズカットお届けします

ステファン・ヴィドヴィツキにショパンは、パリの亡命者の仲間が脱落した話を話した後で、話題を姉ルドヴィカと母ユスティナの
ことを書いた。
「僕の愛する姉のルドヴィカがパリからのポーランドへ帰る途中でウィーンへ立ち寄りました。ルドヴィカはあなたを探しましたがあなたに会えませんでした。
彼女はポーランドに戻りましたが、姉夫妻はあなたのことをいつも気にしています。
僕のママは疲れて年をとりました。
また、あなたに会えるかもしれません。
僕の母は聖なる性格でどのように善であるのかをあなたは知っている。 そして、あなたは彼女の手紙が私にとってどんな祝福であるか想像することができます。」
僕の母も姉も善良な人です、なぜ、あなたは会ってくれないのですか?私が疑いをかけられている人物だからですか?
それは、ないでしょう、僕たちはワルシャワ時代からの古くからの友人ではないですかとショパンは言っているのである。
「僕はザレスキに会った。彼が親切にも私を訪ねてくれた。
彼はとても元気そうな姿でした。僕はザレスキにもっと会えたらうれしいです。
グシマーワはこれまでよりも若くなっています。まるで20歳の青年のように踊ります。(グシマーワはこの時、あと1か月後に52歳)
こんな寒さは今まで一度もありませんでした。」
ザレスキはポーランドとベラルーシの社会活動家、ジャーナリストであり、ショパンは彼が自分を訪ねて来てくれたため会って話をしたと言うのだ。
それから、ポーランド亡命者が困難な状況だと言うのにグシマーワはなぜか元気だねと意味ありげに話したショパンだった。、
そして、ショパンの遠回しな言い方はまだ続いた。
「今日は、ポーランドの中庭で新しい宗教カルトの「予言者」であるアンジェイ・トマス・トヴァンスキには雪が降らない最初の日です。(ポーランド亡命者のコミュニティの代表であるミツケェビッチと内輪もめしていたアンジェイ・トマス・トヴァンスキはロシア帝国からのスパイ容疑でパリから追放され、スイスのチューリッヒに住んでいたため、既にパリにいなかった。)
春は僕たちを忘れている。でも、あなたは大丈夫す。(私たちポーランド人に幸せが来るのでしょうか、あなたは捕まらないでしょうから大丈夫ですよ。とショパンはそれとなく言った)
今年があなたに健康と幸福をもたらすことを願いましょう。
僕を愛してください。僕はあなたよりも価値があるわけではありませんが。あなたの昔からの友人ショパンより」
ショパンは自分が書いた便りに、サンドの手紙も一緒に送ることがよくあった。
1844年の暮れから、雪が多くノアンから出られなかったサンドであったが、1855年も3月になり、サンドもパリに来ていたのだ。ステファン・ヴィドヴィツキへ手紙を書かなったことへのお詫びをサンドからも述べた。
「私があなたに手紙を書かなかったことを私たちは申し訳なく思っています。ショパンは病気のためにあまり手紙を書けません。
だから、レッスンの仕事の間、咳の発作と、安静にする時間を見つけるのが難しいのです。ですから彼を許さなければなりません。それは彼の健康がどれほど繊細であるかということです。私たちがここで経験しているひどい霜は彼にとても有害なのです。(パリの公害)私自身もほとんどいつも体調が悪くて、今日も悪天候でこの手紙を書いております。」
パリは天気が悪いと本当に街が暗い、それゆえ人々の気分も一層暗くなるのだった。
また、サンドは人間関係のことをお天気に例えて書くことがよくあった。サンドはパリに来たがショパンとは雲行きがよくないことをそれとなく書いたのであった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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