F.Chopin、グシマーワへ、ロンドン特派員ショパンより2回目の報告とは…

ロイヤルオペラハウス19世期頃スケッチ画から、ウェリントン公爵肖像画より、イメージ
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ロンドンに来てからショパンはグシマーワへ2度目の書簡を書いていた。
「イタリアのオペラ(劇場街)から帰ってきたところです。
ジェニー・リンドは今年初めて歌い、
女王は、✳︎チャーチストのデモ以来、初めて公の場に姿を現しました。」
パリの2月革命以前からイギリスで1838から(~58年まで続いた)始まっていた✳︎[チャーチスト運動]は労働者階級を主体として展開したイギリスの民衆運動のことである。
2月革命の影響から1848年4月ロンドンのケニントン広場での数万人のデモ活動はピークを迎えた。政府は軍隊を動員しデモ隊を弾圧した。570万人の署名と国民請願書は拒否され、内部対立や指導者の逮捕・投獄によって、チャーティスト運動は衰退した。
ショパンがロンドンに行った5月にはチャーチスト運動が衰退し、イギリス女王が4月の民衆暴動を弾圧後、ショパンがリンド嬢から招待されたイタリアオペラのロンドン公演の劇場の貴賓席に現れたのだった。
ショパンはグシマーワに続けて報告した、
「しかし、それ以上に私を感動させたのは、
✳︎ウェリントンでした。
王室のロイヤルシートの箱の下に座っているウェリントンは、犬小屋にいる古い君主制の番犬のようだった。」
ウェリントンとは、イギリスの軍人で政治家のウェリントン公爵のことだ。彼は、ワーテルローの戦いでナポレオンを打ち破った勝利者として有名で英国で最も偉大な将軍と呼ばれていた。(軍人としての最終階級は陸軍元帥 であった。)彼は1837年から即位したヴィクトリア女王から信任されていた。しかし、
1839年の寝室女官事件の女官の人事の女王の説得には失敗したことがあった。そして1841年成立の第2次ピール内閣には無任所大臣として入閣した。1842年には軍職の陸軍総司令官職に再任。(1852年の83歳まで勤めた)
彼は死の最後の日までイギリス陸軍の最高司令官として戦った。
……その彼がイタリアオペラ座の公演のイギリス女王のロイヤルシート席の下の階に座っていたのだ。
ショパンは1階席の招待席に座って、
その様子を観て驚きながらも、「犬小屋にいる古い君主制の番犬のようだった。」
とショパン特有の皮肉混じりに語った。
ショパンを招待したのは、リンド嬢だったが、招待席に座われるのはヴィクトリア女王に気に入られていたからなのだ。
「私はジェニー・リンドに会ったことがあります。彼女はとても魅力的で、彼女の名刺と一緒に私に最高の席のチケットを送ってくれました。(特別席は2.5ギニーでした。) 
私は素晴らしい席に座り、とても良い音楽が聴けました。
彼女は素晴らしいスウェーデン人のタイプだと印象づけられました。
普通の背光ではなく、一種のオーロラに包まれている。」ショパンは(北欧の光)とリンドのことを呼んだ。
「彼女は(ベッリーニの)『ラ・ソンナムブラ』で並外れた効果を出している。彼女は
驚くべき純粋さと確実さで歌い、彼女の弱い音の声はとても安定していて
髪の毛一本一本のように滑らかで均一なのです。」ショパンは自分は評論家ではないから他人を批評する趣味はないといつも言って来たが、
グシマーワにリンドの批評を伝え、グシマーワが新聞社にそれを売って、ショパンに何割かのお金に替えていた。ショパンはまるでロンドン特派員なのだ。リンドは中音域がいわゆる音痴?不安定だったためメンデルスゾーンはいくら愛人とはいえリンドに自分の曲を歌わせたくなかった。自分の曲?が落ちぶれて聴こえてしまうからだった。
そして、ショパンにとってはポーランドの最愛のコンスタンツァアの思い出の歌声を超える女はいないのだ。
ショパンはリンドを褒めるには、リンドのPピアノ(弱い音)に限って褒めた。
そして、それは北欧的だとした。
グシマーワへのロンドン特派員ショパンの
報告第二回はこうしてパリへ伝えられたのだった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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