F.Chopin、ショパン、ピアノが3台あっても弾く時間なし、ショパンはポーランド亡命者のためにロンドンでも生きていた…

ピエール・エラールと
リバプール・ストリート駅ロンドン1847年頃写真から、イメージ
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ピエール・エラール(1896‐1855)と
グランドピアノの複雑なアクション(ダブルエスケープメント)は創業者のピエールの叔父セバスチャンとピエールが2人で考案した。
ピエール・エラールは1794年パリに生まれた。父親のジャン・バティスト・エラールと
その弟のセバスチャン・エラールが創設したエラール社を引き続いだ。
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……ショパンはグートマンにアルフレッド伯爵に会ったことを話した後、まだ書いていない大事なことを書き続けた…、
「王女(チャルトリーシュカ)にお礼を言ってください。私はまだ
手紙を受け取った人たちのほとんどがまだ到着していないため、すべての人に声をかけることができませんでした。」
ポーランド貴族のポーランド人のチャルトリスキ王女はパリのポーランド亡命者の集会所オテルランバードに娘と住んでいる。彼女はオテルランバードを購入して6年が経つ。彼女は47年にロシア軍に参加して中将になり引退した息子を亡くしていた。息子アダムは一歳の時、両親が離婚したため、父親ルードヴィヒ・フォン・デンヴルクに連れられてロシアで育てられたのだ。彼女は喪に服していたのか、47年暮れのオテルランバードのチャリティーバザーの時に人前に出てこなくなっていたのだ…。
その、チャルトリスキ王女から、パリのポーランド難民の名簿をショパンは託されていた。パリのポーランド難民の人達がパリからロンドンへ亡命したのだ。
ショパンはまだその全ての人々に会っていないとグートマンに伝えた。
そして、ショパンは、ようやくピアノの話しに移った。
「エラール氏は急いで自分のサービスを提供しくれました。
エラール氏とはピエール・エラールのことで、彼はセバスチャン・エラール氏の後継者で甥に当たる。グランドピアノの原型は彼が作ったのだ。11年前の37年のロンドン極秘旅行でショパンはフランスのエラール社が既にロンドンにあったため、プレイエル氏と視察したことがあったためピエール・エラールと面識があった。
「彼(ピエール・エラール氏)は私のためにピアノを1台用意してくれました。私に提供されたピアノは、
ブロードウッドとプレイエルの全部で3台のピアノです。
しかし、演奏する時間がないのに何の役に立つのでしょうか?」
フランスのエラール社のピアノとイギリスのブロードウッド社のピアノとフランスのプレイエル社のピアノの内、ショパンはどのピアノが1番気にいるかエラール氏は興味があった。
グートマンに話しを続けて書くショパン、
「私は数え切れないほどの書簡を書いてたり、招待状を受けたりして毎日が電光石火のごとく過ぎていく。
プレイエルに手紙を書く自由な時間は私はまだありません。
あなた(グートマン)自身のことを教えてください。
あなたの計画は何ですか?
あなたの弟子はどうですか?」
ショパンはロンドンに来てもポーランド亡命者との交流に忙しかった。そこに貴族の社交界からの招待状が毎日のように届き、それを一通づつ目を通し、丁寧に返事を書くだけで一日一日が過ぎてしまうのだ。
ピアノが3台もあっても練習どころか触る暇もないとグートマンに漏らしたショパン。
パリに残してきたショパンの弟子はグートマンに渡したから、もうあなたの弟子だから後は頼むと、ショパンはそういう気持ちになっていた。
「家(ポーランド)の状況は最悪です。私はとても心配しています。」
パリの二月革命を発端にヨーロッパ各地で労働階級者の暴動が起きポーランドはウィーン体制(46年から続いていたロシアとオーストリアとプロイセンの弾圧による鎮圧が続いていた。そしてウィーンからのポーランドの植民地支配への反発が高まったが、ポーランドは独立運動に失敗。ハンガリーの民族運動も失敗。イギリスのチャーティスト運動(弾圧により失敗)イタリアの「青年イタリア」ローマ共和国建設も失敗、ヨーロッパ全土に広がった1848年の革命であった。
 「しかし、それでも私は、ここで(ロンドン)演奏しなければなしらない。
私にはフィルハーモニーで演奏しないかという申し出があったのですが、それは断ります。
いずれにせよ、私は女王の前で演奏した後は、どこかの個人宅で限られた聴衆のために昼公演をしなければなりません。
少なくとも私はそうしたいと思っています。今のところ、これらのことはすべて計画です。
君は長い手紙を私に書いてください。
あなたが何をしているのか教えてください。
親愛なるグートマン、いつもありがとう。」
ショパンはロンドンのロイヤルフィルハーモニーとの共演を断る意思が固かった。
ショパンはポーランドのロンドンでの亡命者の集まる150人から200人までの人たちの前ならば演奏しても良いとグードマンに告げた。
ショパンは祖国を思う気持ちは変わらずポーランドの人たちのためなら演奏しても良いと強く語ったのだった。
ショパンは祖国を想う気持ちは変わらずポーランドの人たちのためならば演奏しても良いと強く語ったのだった。


マリア・アンナ・チャルトリスキ
(1768年10月21日ワルシャワ‐1854年パリ)
マリア・アンナの父親はアダム・カジミエシュ・ツァルトリスキ王子でした。
母親はイザベラ・チャルトリスキ。
イザベラはポーランドのポメラニアン地方の生まれで父親はポーランドとリトアニアの共和国の王様でした。
1784年、彼女はプロシア(ヴェルテンベルク国、現在のドイツ領)のフリードリヒ2世の甥であるルートヴィヒ・フォン・ヴュルテンベルク公爵と結婚しました。ルートヴィヒは
ポーランドとリトアニアの王を兼任した。
1790年にプロイセンがロシアと同盟を結んだ結果、プロイセンの将軍としてポーランド軍に加わり、中尉としてリトアニア軍の指揮官とワルシャワの知事になりました。しかし、1792年のロシアとポーランドの戦争でプロイセンが同盟でなくなり、妹のソフィー・ドロテがロシア皇太子のツァレヴィッチ・ポールと結婚した。
マリアの夫のルートヴィヒは、妹が結婚によりロシア皇后になっていたため、
彼はロシア軍との戦いを放棄したことが原因でポーポーランドが敗北したと、彼をポーランド人は裏切り者としてみなした。
そのため、マリア・アンナは1793年に彼と離婚した。
1793年にポーランドの第二次ポーランド分割後、一人の息子、アダムは父親と一緒に暮らし、ロシア皇后の妹に育てられた。ニコライ1世の遊び相手でもあった。彼はロシア軍に入りロシア軍の中尉になった。
その後、マリア・アンナ・ヴィルテンベルスカは、ハプスブルク家ガリシアのウィソックに住んだ。
1830年の11月蜂起で、ロシア人に没収されたプワビから逃れ、イザベラ‐チャルトリスキは娘と一緒にウィソックに住むことをやめ、1835年に亡くなりました。彼女の息子であるマリア・アンナの兄弟アダム・イエジチャルトリスキはパリに亡命。
1837年にパリに移り、そこで兄のアダム・チャルトリスキとオテルランバートに住みました。1842年にオテルランバートを買収し彼女はポーランド移民のための慈善活動をした。
ショパンはオテルランバードで謝肉祭の日に演奏した。ショパンのマズルカop.30は、マリア・アンナに捧げられている。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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