2019年7月11日記事から、ディレクターズカットお届けします

1844年9月チェリストのフランショームへパリへ行く予定が遅れていると書いたショパンはその3日後にパリに来ていた。
フランショームとショパンの友好は、1833年の夏、チェリストのフランショームの田舎にショパンが招かれた頃から始っていた。そして、その頃、ショパンがシュレジンガーから依頼されていて既に温めていたマイヤベーアの≪悪魔のロベール≫を主題にした曲を、フランショームとショパンは共演した。そして、その曲は、フランショームとショパンの合作として≪「悪魔のロベール」の主題による協奏的大二重奏曲≫として出版された。
ショパンは、それまでにも少年期のワルシャワ時代にチェロのための作品を2曲書いていた。
ひとつは、18歳の時の作品、≪ピアノ三重奏曲ト短調作品8≫は、フレデリック・ショパンが作曲した唯一のピアノ三重奏曲。
もう一つは、19歳の時作曲された、≪序奏と華麗なるポロネーズ作品3≫で1829年10月20日から同月28日に書かれた作品で、序奏の部分は1830年4月に書かれた。
いずれも、ワルシャワ時代の少年期にチェロの名手でショパンの少年期のパトロンあったアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ公のために書かれ献呈されている。
そして、ショパンの生涯の最後の作品となるチェロソナタは、1845年から1846年にかけて書かれたとされているが、ショパンは、1844年の9月にフランショームとパリで会って、既にチェロソナタの構想を練っていたと思われる。
ショパンはこの曲を完成させるにあたり、何年もかかっており、フランショームの要望があったのか、ショパンがソナタに拘って新境地を開きたかったためなのか、ショパンが苦しんで完成させたことが想像できるのである。
時は、1844年9月下旬パリに着いてショパンはまずは、ノアンのサンドへご機嫌伺と報告を一筆したためて送った。
「お元気ですか。
僕は、今着いたばかりです。あなたの小包をジョリーさんに配達しました。
彼は魅力的な方だった。
ロゼールは、僕をランチに連れて行ってくれました。
フランショームと会い、出版社へ行ってきました。
ドラクロワにも会って、2時間半もの間、音楽などの話と、特にあなたについての話をしました。木曜日に私の座席を予約していますから、金曜日にノアンへ戻れると思います。」
座席の予約ということは、ショパンは駅馬車をパリとノアンの間を使い、ショパンの馬車はモーリスが使っていてまだ帰ってきていないのだ。
いつものように、サンドを忘れていませんよ、ということとノアンへいつ戻るかを報告してサンドのご機嫌を取るショパン。
「今は郵便局に行って、それからグシマーワとレオのところも寄ります。」
ショパンはフランショームに約束の借金を返せたのであろうか。
「明日は、フランショームと一緒にソナタをいろいろ試してみようとおもいます。」
ショパンは、この頃からチェロソナタの構想を練っていたと思われる。
「あなたの小さな庭から1枚の葉を同封します。
グシマーワがちょうど到着したところです。
彼はくれぐれもよろしくと言っていました。
それは、すべて私が買ったものですが、あなたの部屋は昔のままの状態のままで、
午前1時を除いて私は昔のままの暮らしをしています。
僕は、あなたから頼まれた用事を忘れていません。」
何の用事か不明、書いていないところを見るとサンドとショパンの間だけでわかっていることなのであろう。
「グシマーワと僕はチャイトリスカ王女(チャルトリスキ)に会うつもりです。
私の愛を親愛なる子供たち(サンドの子供モーリスとソランジュ)に与えます」
サンドはルドヴィカからとショパンの出版で得たお金をサンド自身の道楽でなく子供たちのために与えなさいとショパンは言いたかった。サンドは子供へ愛情を注いでいないと世間から批判をされていた。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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