F.Chopin、2月革命後にロンドンに亡命したピアニストとは、「ハレはメンデルスゾーンを弾くのだよ」ショパン…

サー・チャールズ・ハレ(1819年4月11日 - 1895年10月25日)
ドイツ出身のピアニスト・指揮者・作曲家
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ショパンはロイヤルオペラ座でジェニー・リンドが主役のアミーナ役を演ずるベッリーニ作曲の《夢遊病の女》を鑑賞した。
このオペラはヴィンチェンツォ・ベッリーニが1831年に作曲した2幕からなるイタリア語のオペラである。
ショパンはグシマーワにもリンドについて評論を書いたがグートマンにもリンドについて
書いていた。
「昨日、私は《夢遊病の女》のリンド嬢を聴きました。とても素晴らしかった。私は彼女と知り合いになりました。
ヴィアルド夫人(ポーリーヌ)が私に会いに来ました。彼女も《夢遊病の女》で歌う予定です。
今、パリのピアニストは皆ロンドンに居ます。エミール・プリューダンはフィルハーモニックで 協奏曲を弾いたが成功しなかった。
作曲家のプリューダンは自作のピアノ協奏曲をロンドンのロイヤルフィルハーモニックと共演し初演したが、ロンドンでは古典派の曲しか知らない団員と指揮者それから聴衆にも受け入れられなかったのだ。
「彼らは古典的なものしかやらない。タールベルクはリンドが出演する劇場で12回のコンサートをすることになっている。ハレはメンデルスゾーンを演奏する。」
ショパンはロイヤルフィルハーモニックが
新しい曲を作曲家の意図したように演奏しないのではないかとプリューダンの公演から感じていた。ショパンはロイヤルフィルハーモニックと共演を避けていた理由はここにもあったようだ。そして作曲家のハレも2月革命でパリからロンドンに家族で亡命したピアニストのひとりだった。彼は妻と二人の子供と4人でロンドンに逃れて来た。
彼もプリューダンが成功しなかったのを観て
、自作の曲を披露することは辞めて、「ロンドンではメンデルスゾーンが無難である」とショパンが言っていたように、ショパンと親交があった彼はショパンのアドバイスに従ったのかもしれなかった。
ショパンはロンドンに来てから3週間が過ぎ
グシマーワに次なる報告が遅れていた。
理由はたわいもないことに振り回されていると話したショパンだった。
「…私は些細なことに時間を割かなければならない。8時前には私は起床できません。
イタリア人の私の付き人は自分のことしか考えていないのです。
朝一番の私の大事な時間を彼のために浪費してしまいます。そして、午前10時を過ぎると私は金にならない苦行が始まる。午後1時頃になると私はお金儲けのためにレッスンの弟子をひとりかふたり取ります。」
ショパンはロンドンに来てからも苦労続きだった。夜は作曲に没頭し朝は自分の演奏か、またはゆっくり寝ていたいのだ。しかし、それが出来ない環境だと訴えるショパン。イタリア人の付き人とは意思疎通が上手くいかず相性が悪かった。朝の自分のための時間を奪われたような気分がしていたショパン、そして苦行とはお金のためのレッスンの事で、
ショパンにとっては弟子を教えることは耳障りな音を聞かされる苦痛な時間の事なのはパリにいた時と変わらなかった。
有名人ショパンはロンドンでも自由に外出することは出来なかった。自分のための時間は
全くなく、ショパンのスケジュールは管理されていた。
「私はあまり出かけることも出来ず自分のための時間はありません。物事がほとんど自動的に片付いていくのがわかります。
季節が変わり半年も経てば少しは稼げるようになるかもしれません…」
ショパンは芸術のために身を捧げて生きる孤高の人になるよう亡き父から言われていたこととはかけ離れた現実との狭間にいた。
サー・チャールズ・ハレ
(1819年4月11日 - 1895年10月25日)
ドイツ出身のピアニスト・指揮者・作曲家
パリとロンドンで活躍した。
1858年にイギリス最古の専門家のオーケストラであるハレ管弦楽団を創設した。
ハレは、クリスチャン・フリードリヒ・アンドレアス・ハレ(1790-1848)とカロリン・ブレンシェット(1796-1884)の夫婦の3人兄弟の長男として育ちました。
ハレは、オルガン奏者として働いていた父親から音楽を習いました。
1831年にハーゲンの技術専門学校に短期間通った後1835年にダルムシュタットのクリスチャン・ハインリッヒ・リンクに習いました。1836年にはパリに移り、1848年の2月革命の混乱まで過ごしました。その間、ルイジ・ケルビーニ、フレデリック・ショパン、フランツ・リストなどの芸術家と仲間でした。定アルフレッド・ド・ミュッセやジョージ・サンドとも親交を深めました。
ハレは、パリで、アラールやフランショームとの室内楽を成功させたが、1848年の2月革命後、妻と2人の子供を連れてイギリスのロンドンに逃れ、1852年にはイギリスの市民権を得た。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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