F.Chopin、ショパン曰く名刺のない高貴な人と野良犬で溢れていたロンドンとは…

1848年頃ロンドンの街とショパン写真より、イメージ
パリ音楽院主任教授でチェリストのフランショーム、ワルシャワ音楽院の創設者で教授エルスネル、のような肩書きのある名刺が
ショパンにはなかった。
親友フランショームにショパンは書簡を送ってもフランショームから返事はいつもないのだ。そしてエルスネル先生はショパンに
自分の作品をパリで出版し上演したいと相談してきたのは忘れるほど何年も前でショパンはパリ中を駆けずり回わったが、パリでは
エルスネル先生の大作は需要がないことを
伝えてからエルスネル先生とは音信不通であった。ショパンを天才と自分の1番弟子として
気に入っていたエルスネル先生、そしてフランショーム、二人はショパンがロンドンで死にそうになっていても知ってか知らずか助けはしなかった。
例えば[ピアノ個人指導します。夜会で演奏します」こんな具合の名刺ならないほうがましただとショパンは苦しんでいた。
ショパンはロンドン中のスターリング嬢の知り合いを一日中、ロンドンの硬い石畳みを馬車で揺られて、あちこち営業活動に引き摺り回されていた。
親友フランショームのようなパリ音楽院主任教授などという肩書きがないショパンは、
貴族に見劣りしないようにパリでそうしていたように服装には人一倍気をつけていた。
靴は毎日ピカピカに光らせることも欠かさず、高貴な人に見られるようにとショパンは
自分を演出する日々が下らなくさえ思える時もあった。
ポーランドに20年、パリに18年住んだショパン、ロンドンに来てから1か月半経ったショパンはイギリス英語に馴染めなかった。
しかし上流階級の貴族の間ではフランス語が教養の証であったためショパンはフランス語で会話をしていた。
「ポーランドに20年、パリに18年いたので、ここでの生活が遅れるのは当然のことです。
特に言葉が話せないのだから。」
そうショパンはグシマーワに語ったが、
「私が演奏している間、彼らはおしゃべりをしないし、私の音楽のことを良く言ってくれているようだ。」どういうわけか、ショパンは貴族の夜会で彼らが自分のことをどう言っているのかをしっかり聞き耳を立てていたのだ。
ショパンは英語もワルシャワ音楽院の頃、教育を受けていたためある程度は分かっていたのかもしれない。
言葉が出来ないことにして貴族の本音を探っていたショパンなのだ。
肩書きのないショパンは自分が人からどう思われているかは手にとるように分かっていた。
ショパンはロンドンで伯爵や伯爵夫人などに
会っても、自分は粗末に軽率に扱われ、
肩書きがないため音楽家と紹介されても
アマチュアとして貴族たちは自分を見下しているとショパンは彼らの言葉を聞き取っていたのだ。
次に貴族の彼らが目をやるのはステータスを表す靴であり、彼らはショパンのピカピカの上等な靴を見て「あら、高貴な方なのね」と
少しは態度を改めるパターンをショパンは知っていた。
そしてショパンは弟子のこともグシマーワに話している。
「しかし、私が一種のアマチュアであるかのように彼らから見られているため、私の弟子たちも彼ら(貴族社会)から非常に粗末な敬意をもって扱われています。」
そしてショパンは皮肉っぽく話した、
「綺麗な靴を履き!
個人レッスンを行います。"プライベート・レッスンを提供します。"と印刷された名刺を持っていない私を見た彼らは、すぐに私をある種の高貴な人と判定するであろう!」
そして、ショパンの1番のパトロンでもあったはずのロスチャイルド夫人もパリからロンドンへ逃れて来ていたのだが、ショパンの出演料をロスチャイルド夫人は値切って来たのだった。それはロスチャイルド夫人だけではなかった、貴族ほどケチなものはないことをショパンはロンドンで何も食べられない日もあり苦しみ身をもって知った。
「ロスチャイルド夫人は、私に料金を尋ねました["Combien cofttez- vous?
あなたは幾らですか?]」高貴な夫人はイギリス貴族社会でもフランス語であったためショパンは会話は困らなかった。
「サザーランド夫人は私に20ギニーをくれましたから、
私はロスチャイルド夫人にも[20ギニー]と答えました。ロスチャイルド夫人は
明らかに私に親切にしようとしています。[もちろん、あなたの演奏はとても美しい。
ですが、我々は節約をアピールしなくてはなりません。]そのため支出を控えなくてはならないとのことだった。
 私はこのことから、彼らはそれほど寛大ではなく、お金はどこの国でも厳しい状況ということがわかりました。」
パリで貧困だったショパンはロンドンでも自分の演奏でお金儲けをすることは無理であることをグシマーワに語った。
そして、更にショパンがロンドンの大衆に感じていたことは、「音楽で中産階級を喜ばせるには興味本位の馬鹿騒ぎ」やショパンが嫌う「技巧をひけらかす大げさなうわべだけのパフォーマンス」であった。
「ロンドンでは私には関係のない技術的な展示が必要です。」とショパンは皮肉った。
そして、
「海外旅行をする上流階級の人々は誇り高く教養があり、何かに注目するときは公平である。
しかし、彼らの関心は
千差万別の些細なことに浪費され、退屈な慣習に囲まれています。
彼らは、音楽を朝から晩まで聴かされているのだから、音楽の良し悪しは彼らにとって同じことだ。」
音楽は貴族社会では背景にあるバッグミュージックのようなものに過ぎないことをショパンは話した。
「路上歌手のチェコ人、そして私のピアニスト仲間は犬のようにたくさんロンドンに来ている。みんな一緒に混ざりごちゃ混ぜだ。」
チェコでもパリの2月革命以来チェコ革命が起き音楽家はロンドンに逃れて来ていたが、
仕事がなく路上で歌っている歌手をショパンは見た。仲間のピアニスト達もパリから逃れて来ていた。
亡命者が跡を絶たないロンドンの街は売れな自称音楽家も音楽家も金にならないことは同じであった。
ロンドンに来たことがないグシマーワにショパンは知る限りの全てを伝えたかったのだ、
「まるであなたがロンドンを知らないかのように、私はこのすべてを書いています…」…。
 

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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