2019年10月29日記事から、ディレクターズカットお届けします

ショパンの最愛のひとコンスタンツェ
♬ショパンの肖像♬
✳︎ウィーンで知り合ったブレヘトカ嬢✳︎
アンナ・マリア・レオポルディン・ブレヘトカ
(1809年11月16日-1885年1月17日)
作曲家、ピアニスト、
アンナ・マリア・レオポルディン・ブレヘトカは、1809年11月16日、ニーダーエスターライヒ州グントラムスドルフの近隣の製紙工場の検査官の娘として生まれました。
ジョセフ・ブレカ・ソフィア、ジョージとバーバラの子供としてジョセフ・ブラエトカ・ソフィア・ニートレイグは生まれました。
彼女の父親は歴史と数学の教師で、彼女の母親は物理学の教師で演奏もしました。彼女の母方の祖父はウィーンの作曲家アンドレアス・トレイグでした。
家族はウィーンに引っ越しました。彼女の父親のジョージ・ブレヘトカは音楽出版社に就職しました。
レオポルディーヌは母親からピアノを教えられました。彼女はジョセフ・ツェルニー(カール・ツェルニーの弟子)の下で学びました。その他、ヒエロニムス・ペイヤー、エドゥアルド・フライヘル・フォン・ラノイ、ヨアヒム・ホフマン、キャサリーナ・シビーニ・コゼルフ、フリードリヒ・カルクブレナー、イグナズ・モシェレス、などに学び、作曲をサイモン・セヒターから学びました。
1821年から、ブラヘトカはヨーロッパで演奏旅行を行いました。主に彼女はドイツ、オランダ、フランス、イギリスを旅しました。
1828年、彼女はヴァイオリニストのパガニーニのコンサートでウィーンで演奏しました。
彼女はショパンが1829年にウィーンに滞在していたときにショパンと会いました。ブラヘトカが提案したポーランドの演奏会は実現しませんでした。
1830年頃からは、家族でフランスのブーローニュ・シュルメールに移り住みました。
ブレヘトカはブーローニュ・シュルメールで亡くなりました。

***ショパンとブレヘトカ嬢、
そして、ショパンの意中のひとは***

ショパンが初めてウィーンを訪れた19歳の時のことでした。ウィーンで既に活躍していたピアニストのブラへトカ嬢とショパンは会いました。ウィーンではショパンはポーランドから来た駆け出しの青年として扱われました。ブラへトカ嬢はショパンに演奏会で弾くように出版商人のハスリンガーと共に強く勧めました。思慮深いショパンはいくら勧められても気が進みませんでした。結局、演奏会は成功しましたが、ショパンには収入はありませんでした。ブラへトカはショパンにプラハでも弾くようにしつこく勧めて来ました。その後も、ショパンがワルシャワに帰ってから、今度はブラへトカの父親から娘がポーランドを訪ねたいと言っているとの意向を示した手紙がワルシャワのショパン宛に送られて来ました。
ショパンはブラへトカのことは悪くは言うことが出来ませんでしたが、友人ティトゥスには本音を漏らしました。「厄介な問題だ、ドイツ人め・・・金が欲しいだけであろう・・、ブラへトカの期待通りの演奏会でなかった場合は僕が恨まれることになるのだ・・・」と、フレデリックはブラへトカ親子を敬遠する返事を送りつけました。そのため、ブラへトカ親子の思惑通りになりませんでした。
ショパンはワルシャワに帰ってから、もう一度ウィーンへ行くべきかを考えていました。
「ブラへトカ嬢のために僕がウィーンへ戻りたいのではない、ブラへトカ嬢は若くて、綺麗でよく弾ける、しかし、僕には・・・それは、既に6ヶ月間、僕は彼女に何も明かさず、僕は彼女に忠実に尽くしてきた。僕の理想を発見した僕の不幸・・。なぜなら、
僕が夢見ているひと、その記憶は僕の協奏曲のアダージョに書かれている、そして今朝,
僕が君に送っている小さなワルツを書くように僕に影響を与えたひと、
君は、僕が一か所に十字が付いていることに注意してください。 このことは君と僕以外は誰も知らない。」彼女とはコンスタンツェのことである。
ブラへトカ嬢はショパンに親切であったが、ショパンがティトゥスに明かしたように、その頃、コンスタンツェに既に心を奪われていたフレデリックでした。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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