F.Chopin、ショパン、ロンドンでパトロン見つからず迷子状態…唯一親切だったゲインズボロー伯爵夫人

ウェストミンスター寺院19世期スケッチ画と
1843年ショパンの肖像画よりイメージ
ショパンの歌曲マズルカを予告なくロイヤルハウスの大舞台のアンコール歌ったボーリヌはその後の公演が成功しなかった…ショパンはボーリヌの勇気に感謝しながらもボーリヌのことを心配していた。
相変わらずロンドンの街はロンドンに来たら何とかなるであろうと2月革命後に全ヨーロッパから逃れて来た亡命者が溢れていた。
ショパンは貴族から自分が貧困層に見られないように外面を取り繕うことが経済的に精一杯であった。パリも治安が悪くグシマーワから返事は来ないが、ショパンはグシマーワに書簡を書き続けた。
「先週は天気が悪くて、私は良い状態でありませんでした。その上、私は毎晩遅くまで流行のパーティーに出席しなければなりません。私にはそのような生活をする体力はないのです。お金を稼いでいるのであれば、それほど悪いことではないのでしょうが、私は
今のところ20ギニー(現在の約100万)の仕事が2つしかありません。
家では1回1ギニーでいくつかのレッスンをしていますが、コンサートを開く計画はまだありません。」
ロンドンの社交界はまだ喪に服していたためか舞踏会と声楽のコンサートだけであった。「女王はこれまで一度もコンサートを開いていないし、デボンシャー公爵も舞踏会しか開いていない。私は✳︎サザーランドの娘に週に1回レッスンをしています。
サマセット公爵夫もとても魅力的です。
彼女は、ドン・カルロス(スペインの僭称者)の息子が過ごす夜のパーティに私を招待してくれます。
彼女のグレース(戴冠式で女王の直ぐ後ろに付く人!!)は、ウェストミンスターズやみんなを受け入れています。
しかし、公爵は閉鎖的なので、彼らはお金を支払いません。
だから、今日はスペインの王子様がいても、私はそこには行来ません。
今日は8時からゲインズボロー夫人の夜会があるのです。
彼女は私にとってとても魅力的です。
彼女は昼公演を行い、一流の社交界の淑女たちに私を紹介してくれました。
もし私がロンドンの端から端まで丸一日走り回れたら…割愛……
もし私がもっと若くて、社会的な義務に首まで浸かっていなければ、私は人生をやり直すことができたかもしれません。」
ショパンはイギリスで名門貴族集まる夜会に
毎晩のように招かれていたのだが、ショパンのコンサートを開いてくれる貴族の申し出は
なかった。デポンシャー侯爵家はイギリスで最も裕福な16世期から続く貴族であったが、
ショパンへの招待はなかった。
ショパンはパリで社交界にデビューした若い頃のようにはイギリスでは自分はチヤホヤはされないことを感じていた。
ショパンに弟子の申し込みも3人か4人あるかないか程度で、サザーランド夫人の娘だけでは収入にもならなかった。
結局ショパンは仕方なくパリの頃からの弟子だったスターリング嬢の言いなりになるしかなかった…。
「スコットランドの女性たち(スターリング姉妹)は 私に友情を示してくれました。
夜会に誘われないときはいつも彼女たち(スターリング嬢姉妹)一緒に食事をしています。彼女達は
歩き回ったり、馬車に揺られたり、名刺を持ってロンドン中を駆け回ったり
紹介状を持ってロンドン中を駆け回ることに慣れています。
姉妹は、私にすべての知り合いを訪ねて欲しいと思っているのです。
私は生きているというより死んでいるようなものです。私は馬車の中で3時間も4時間も揺られていると、まるでパリからブローニュまで旅したような気分になる。
そして、ここでの距離は…」
パリからブローニュまでは凡そ10km馬車で
凡そ推測35分以上だが、それを往復または
何回も繰り返す感じであろうか、ショパンにとって馬車の揺れはパリの石畳み以上感じ、ショパンは無駄に疲労した。
「ロンドンでは、ポーランドの舞踏会が大成功を収めました。私はチケットを持っていましたが体力がなかったので行きませんでした。
事前にキンロー夫人邸で夕食をとりましたが、そこには、腰巻の下に勲章のリボンをつけた大蔵大臣や神出鬼没の人々が集まっていました。
私はいつも様々な人々に紹介されるのですが、誰に紹介されているのか見当もつかないのです。
私はロンドンでかなり迷子の状態になっています。」
キンロー夫人とはキンロック・フォーブス侯爵のことで彼はイギリス領であったインドの植民地を管理していた、彼は1846年11月にインドのアーメダバードの副裁判官に任命されていた。
ショパンは、そのキンロー侯爵邸に招かれたのだが、侯爵や夫人の人柄や食事の内容には
触れず、偉い人々を紹介されてもその空気にショパンは馴染めなかったようだ。
恐らく、キンロー侯爵からもショパンのコンサートの開催の話や支援の話が全くなかったのであろう。貴族たちは皆、示し合わせたかのようにショパンのコンサートの開催の話しは誰もしなかったのだ。
唯一、昼公演を開催してくれたのは、ゲインズボロー伯爵夫人であったが、ショパンはロンドンで新しいパトロンは見つけることが困難であることをグシマーワに伝えた…。
ゲインズボロー伯爵 夫人
1814年11月20日- 1885年5月12日
ビクトリア女王の寝室の女官を務めた


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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