2019年2月28日記事から、ディレクターズカットお届けします

19世期ドレスデンの聖母教会とショパン肖像画からイメージ
1836年9月ヴォジンスキ夫人はショパンとの連絡係にナクワスキ夫人を介していた。
それは、ヴォジンスキ夫人がわが身と一族のことを用心していたことが伺えるのだ。
フレデリックは父のニコラスに革命派に数えられないように気を付けろと言われていたフレ
デリックであったが、フレデリック・ショパンは革命派のブラックリストに挙げられていた
のである。そのため、当時ポーランドはまだ革命が失敗に終わって政治的に不安定な時期で
あり、ヴォジンスキ貴族の総帥はロシア派に属していたため、ポーランドには帰ることがで
きないショパンの立場はヴォジンスキ夫人にとって反対側(ポーランドの革命派)の者であ
り、ショパンを信用しきれなかったのである。
ショパンはドレスデンでヴォジンスキ家に1856年8月に会った後、シューマンからの懇願でラ
イプツィヒでシューマンと会ったショパンはパリへ戻ろうとしていた。
その間に、パリのショパンに宛てて、ヴォジンスキ家から夫人とマリアのふたりで書かれた
長々とした便りが到着していた。
夫人は自分の体調は歯の治療で芳しくなかったために、マリアとの婚約の話を考えることが
出来なかった、とまず切り出し、
そのせいで、ヴォジンスキ家としてのマリアとショパンの婚約の話し合いはなされていませ
ん。そして、それは、ショパンの滞在も短かったため話し合いが出来なかったことは、責任はショパンにもあるとそれとなく言っている夫人であった。
ジラルダン夫人にも話が既にしてあると、ショパンに内密にと言いながら、夫人とマリア自
ら、「あの有名なショパンが私の娘のマリアに求婚したのですよ」と言いふらすヴォジンス
キ夫人であった。そして、婚約の事はヴォジンスキ夫人としては取り消そうとは思っていな
いから、ショパンにはこれから事柄が運ぶまで健康に気を付けることを最優先にするように
と条件を提示したヴォジンスキ夫人だった。
そして、マリアの弟カシミールが兄アント二イがポーランドで結婚式を挙げる下見に行って
帰ってきたところだった。
ポーランドは麻薬の一種であるジギタリスの空気が漂っていて街が不安定な状態であること
を、チェコのボヘミアのアヘンのようなものであるとカシミールは母のヴォジンスキ夫人に
報告したのであった。
その話を引き合いに出して、ヴォジンスキ夫人はショパンに、「あなたは大丈夫なんです
か?」と言いたいのだった。
そのうえで、「娘のマリアにとって将来ショパンと結婚することは良いこととは思えない状
況だから1年間は様子を見させてください」と、ヴォジンスキ夫人はショパンに求婚されたこ
とを社交界に自慢しながらも、それが知れ渡ったところで、最初からその気がないヴォジン
スキ家はショパンに気を持たせときながら、結局は断る方向なのであった。
それが原因でこの先、ショパンの社交界での人気は急落していくのであった。
ショパンはヴォジンスキ家に陥れられたのかもしれない。
ヴォジンスキ夫人の便りは結局のところ、何が言いたいのかわからないような内容であり、
そこがまた人を惑わすための手段であろうか。そして、最後にヴォジンス家から、下僕のショパンに見
合ったスリッパをプレゼントしたのにものの、そのスリッパのサイズが大きすぎたとショパ
ンは言ったらしいことがヴォジンスキ夫人の耳に入り、「こんなに私たちがショパンのため
を思って高級なブランド物のスリッパを特注で制作させたのに、あなたはそれにケチを付け
てショパンは自分の身分をわきまえない失礼な人ね」と、娘のマリアに言わせる夫人であった。私たちは名門貴族ですよと、ショパンに言いがかりをつけて便りは終えているヴォジンスキ家の人々だった。

0コメント

  • 1000 / 1000

Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです