F.Chopin、ロンドンで不振のポーリーヌとロンドンで成功者のリンドの深層を知るショパン…そして、ショパンから見たグートマンの指は…

ポーリーヌ・ヴィアルド
ポーリーヌはショパンのマズルカを歌ってから公演がうまくいっていなかった。
一方、メンデルスゾーンの愛人と噂されたリンド嬢はメンデルスゾーンが亡くなった後のこの年ロンドンで熱狂的に受け入れられていた。メンデルスゾーンは亡くなる年の1847年
に最後のロンドン公演を行なっており、ロンドンの社交界ではメンデルスゾーンのことは記憶に新しかった。メンデルスゾーンは生涯に10回イギリス演奏公演を行なっていたため、ヴィクトリア女王とアルバート王子の前で演奏する機会を何度も得ていた、メンデルスゾーンもまた、ロンドンの上流社会の夜会に招かれ、夜も眠れない日々を過ごしていたのだ、彼はショパンより1歳年上で38歳で精神を病んで亡くなっている。
そして、メンデルスゾーンが亡き後のロンドンへ訪問したショパンはロンドンではメンデルスゾーンを演奏しなくては成功しないといつも嘆いていた。
グシマーワへ書簡の続きを書いたショパンだった…
「個人の邸宅で私はコンサートをしたいと考えています。もし成功したら
150ギニー(現在の75万円)くらいにはなるかもしれない。ここでは珍しいことです。」
ロンドンではパリのサロンのような催しはなかったのだ。
「オペラの収入は1,000フラン強ですが、幕が上がる前の経費はすでに900フラン以上になっています。どちらのオペラが儲かっているかは知らないが
とのオペラも儲かっているかどうかはわからないです。
昨日、私は再びリンド嬢の《ランメルモールのルチア》を鑑賞しました。とても良かった。彼女は最高の熱狂を呼び起こした。」
ロンドンでオペラは流行っていたが、
儲かっているかは謎だとショパンはグシマーワに話した。リンド嬢は《夢遊病の女》の後、1か月経たないうちにまたべつの演目のオペラで大成功を収めた。
リンドはメンデルスゾーンの愛人と噂されていたが実は、本命パトロンがいたのだ。
ユダヤ系イギリス人のジュリアス・ベネディクト(1804−1885)彼はドイツ出身でロンドンで作曲家と指揮者として活躍していた。
彼の生まれはメンデルスゾーンと同じく銀行家の息子で裕福な上流階級であった。彼はベートーヴェンに1823年に会ったことがある、詳細は不明だが、ベートーヴェン(1770年12月−1827年3月26日)もまた貧乏に苦しんでいた。
リンドはジュリアス・ベネディクトの同伴でアメリカ公演を、この後の1850年に彼の企画で成功させるのである…。
リンドはショパンが聴いた48年に既に声が衰えていたのだがどうして素晴らしかったのかは謎である。
…ショパンは続けてグシマーワに
気になっていることを書いた、
 「しかし、グートマンは何をしているのだろう。どうやって彼は自分の手で
馬鹿を演じるなんて!彼に言ってやってくれ、自分自身を尊重して
手を酷使しないように言ってください。」
弟子のグートマンは、誠実な性格でショパンは彼が好きだった。しかし、ショパンから見たグートマンのピアニストとしての指は弱く、彼は手がピアニストとして出来上がっていなかったのだった。ショパンは、
グートマンから手紙が来たのか不明だが、
彼はパリで無理をしているのではないかと、グートマンのプログラムを見てショパンはグートマンにグシマーワから忠告してもらうように頼んだ。
 「ヴィアルド(ポーリーヌ)はここではあまり成功していない、というのも、ロンドンではグリジやアルボーニがもてはやされているからなのだ。…」
劇場はバレエのプリマ、グリジとオペラ史上最強のアルボニーに人気を拐われていた。
ショパンは成功者達やリンド嬢よりもポーリーヌが気がかりであった…。


マリエッタアルボニ
(1826年3月6日– 1894年6月23日)
イタリアのオペラのコントラルトオペラ歌手
✳︎コントラルト(kontralto)は
コントラルトはメゾソプラノに似た
カウンターテナーとほぼ同じの稀な声域。
カルロッタ・グリジ

カルロッタ・グリジ
 (1819年7月28日 - 1899年5月20日)
イタリアのバレエダンサー

ジュリアス・ベネディクト
(1804−1885)ドイツ出身
作曲家、指揮者
ユダヤ系イギリス人の裕福な銀行家の息子として生まれた。
リンドのパトロン

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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