2019年8月5日記事から、ディレクターズカットお届けします

5日間かけた書簡から10日が経った。
ちょうど1年前までは父ニコラスを亡くし失意の中にiいたフレデリックは、姉ルドヴィカの支えでソナタ3番作品58を書き上げることが出来たフレデリックであったが、その後は、
マズルカは書いてはいたものの、これといって作品が完成されていなかった。新しい作品に着手はしていたが、まだ完成はしない、出版商に売り込む作品がない状況だった。
新しい作品が書けなければ作曲家として終わりなのである。パリに戻れば寒い季節は体調も優れないとうのにサロンの夜会や弟子のレッスンに追い掛け回され、落ち着いて作品を書く余裕がないのだ。
そのため、夏の間はノアンののんびりとした環境に身をゆだね、普通ならば面倒なはずの書簡をワルシャワの家族へ書くことが自分の作品を生み出す原動力となっていた。
5日間かけてフレデリックが書いた書簡はパリのロゼールへ送られ、ロゼールからワルシャワへ送られた。それから、10日間の間に、ワルシャワの家族からパリのロゼールを経由してノアンのショパンに返事が届けられた。
ノアンの夏も8月になった。
ショパンは家族からの手紙の返事の返事を書くために、
原稿を書く手を休めた。
「[手紙の前置きに]僕は、手紙を書き始めた日に手紙を書き終えることは絶対に不可能な愚か者です。
僕はこれを書くのに5日かかりました。」
フレデリックは10日前に書いた書簡も5日間かけて書いたが、今度もまた5日間もかけて書いたのだと、最初に家族に伝えた。
「僕の愛する人たちへ、
昨日パリからあなたの返事がノアンに届きました。
ママとイザベラの家族は避暑に田舎へ行っているそうですね。
数日前にも、ノビ・シフィアト[ワルシャワのメインストリート]のママに宛てに僕の書簡はパリのロゼールの手を経て送りましたが、もう読んだとおもうけれど、その書簡をシュザンヌはどうしたらいいか分かっていると思います。
もし、シュザンヌが分かっていないようだったら、この間の書簡はこの書簡よりも分厚いものであることを伝えてください。」
フレデリックはワルシャワの頃の一番気になる懐かしい友人といえば、ティトゥス(親友)とコンスタンツェ・ゴドフスカである。
10日前の書簡が家族が読んでくれたことはわかったのだが、それから、その書簡をティトゥス(親友)とコンスタンツェ・ゴドフスカにも読んでほしいと思うフレデリック。。。
ティトゥスはフレデリックとウィーンへ一緒に行った仲で、フレデリックがパリに来たばかりの頃のコンスタンツェが結婚するまでは、ワルシャワに戻っていたティトゥスがコンスタンツェへフレデリックの書簡を届けてくれていた。
そのやり取りはコンスタンツェが結婚した頃に途絶えたのかもしれないが、ルドヴィカからコンスタンツェが苦境に立たされていると聞いたフレデリックは、
何とか、自分の書簡を誰かの手で届けて目の見えなくなったコンスタンツェに読んで聞かせてほしいと思ったのかもしれない。
「僕はこの間の書簡でニュースの種を使い果たした。
だから、今回の便りは短くしようと思う。
あなたは、この間の書簡にサンド夫人の追伸があったのを読んだとおもいます。同じように、ルドヴィカがパリのロゼールへ書いた手紙を僕がパリのロゼールへ送っておきます。
ロゼール嬢は手紙を書くことが大好きで、特に何もなくても
気持ちの良く書けるのです。僕のように苦しんで書いていないので
僕はあまり愉快でないのです。」
フレデリックは書簡をよく考えて苦しみながら書いていたのだ。
「家族の半分が田舎に避暑へ行き、ヘンリック(ルドヴィカの息子)も新鮮な空気の中にいいると聞いてうれしいです。しかし、そこに、あなた(ルドヴィカ)が一緒に行かなかったことは残念です。」ルドヴィカの家族はワルシャワの公害を逃れて田舎の新鮮な空気の中にいた。フレデリックがそうするように前の手紙で書いたようにしたのだ。しかし、ルドヴィカは田舎へ行かないでワルシャワに残っていた。
1年前のパリとノアンへフレデリックに会いに行った旅費などでお金を使い果たし、サンドに払ったお礼で出費がかさんだからだった。

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