F.Chopin、ショパン、パリ6月蜂起をロンドンから心配す…ポーリーヌの裏切りとサルトリス夫人邸宅でのコンサートとは

サルトリス夫人邸宅(現在は記念プレートが飾らせている)ショパン肖像画から
グシマーワに書簡を書いてから、グートマンへも何日か後に書簡を送ったショパン(現存しない)、それから1か月近く経とうとしていた。情勢の悪いパリに居るロゼールはどうしているかショパンはロゼールに宛ててペンを執る。
「このような不幸な状況(パリでの3日間の暴動)の中で、あなたはどうしていますか?
私たちの地区が助かったこと、そして少なくとも私たちの友人が犠牲にならないことを願っています。
ご連絡をお待ちしています。」
パリでは(六月蜂起1848年6月22日夜から6月25日に起きたフランスの労働者階級によるフランス全土における国立作業所閉鎖に対する暴動)暴動が起きていた。
ショパンは友人達の安否を気遣った。
「ソランジュはシティゲートの近くに住んでいますが、危険地帯に近すぎて被害を受けた
のではないでしょうか?私はグートマンに手紙を書きました。(現存しない)
哀れなグートマンは国家警備隊に入っています 彼は銃弾を簡単に防ぐことができるでしょう 。グザイマラ、ドラクロワ、
アルカン、プレイエル、ロッシュシュアール通りの家を全部持っている人!何と恐ろしいことか。神のご加護があらんことを秩序が取り戻されますように。」
パリのモンマルトルのロッシュシュアール通りに住む友人達をショパンは心配していた。
「ソランジュは本当にパリを離れるのか?
私は彼女に数通の手紙を送っています。」
(現存しない)ソランジュはギリルから、
パリに戻りクレサンジェと街の門の近くに住んでいた。被害が出ていた場所から逃げてパリを離れたかショパンは心配した。
パリは酷い状況下であることを知るショパンは6月23日ロンドンで、パリの友人達の安否を心配しながらも優雅な昼公演で演奏しなくてはならなかった。
 「私はここで昼公演を行いました。
とてもエレガントな雰囲気でした。
サルトリス夫人(ミス・ケンブル)が家を貸してくれました。
マリオが3曲歌い、私は4曲を演奏しました。
それだけです。
私は150人の厳選された観客を1ギニーで招待しました。
部屋を混雑させたくなかったからだ。
チケットは前日に全部売れてしまいました。」
サルトリス夫人は裕福な俳優の家柄に生まれた。姉は女優のファニー・ケンブルでアメリカ南部の金持ちと結婚したが、夫は彼女の奴隷制度廃止論に反対していたため、ファニーは離婚をしてアメリカツアーからロンドンに戻っていたところであった。ショパンは、
サルトリス夫人の姉にも会ったのではなかろうか。

 「ファルマス卿が2回目の昼興行のために彼の家を提供してくれたが......。
でも...でも... 守らなければならない規則が多すぎるため、付き合うのは難しい。
マリオはおしゃれな社交界のオペラ歌手ですが同じような実力ある歌手は他にいない。
私のコンサートでリンド嬢も歌いましたが、リンド嬢は自分のベイマーケット王立劇場で行われるコンサートさえマリオ以上ではない。
私たちが知っている歌手たちは、あまりにもどこでも多くの場所で歌っている。」
マリオはイタリアの有名なオペラ歌手でしたが、彼はパリに亡命しサロンでアマチュアとして歌っていた、彼はパリの社交界で素晴らしい自然な声で人気を得た、マリオは作曲家ジャコモ・マイアベーアにオペラ歌手になるよう勧められテノール歌手となった。
そのマリオもパリから逃げてロンドンに来ていた。しかしロンドンに溢れていた歌手達はリンドのような大物パトロンが何人も付いていない限りは仕事がなかったのだ。
彼はショパンが企画した小さなコンサートに出演してくれたのであった。

そして。ショパンが気にかけていた、
ポーリーヌはその頃、、、
「ヴィアルド(ポーリーヌ)の現在のプログラムには(例えば昨日の宮殿でのコンサートでは、
もはやこんなプログラムはあり得ない!
《ショパンのマズルカ 》ではなく、単に
《ヴィアルド夫人が編曲したマズルカ》
となっていたのだ!
その方が見栄えがするのであろう!
私にとっては同じことなのだが、
その裏にはポーリーヌの情けなさがある。

彼女は成功したいがために
私を嫌っているかもしれない某新聞社を恐れているのだ。

その新聞は、
『ポーリーヌは、
知名度の無い "ショパン氏 "
の曲を歌った。』
と書いたことがある。
『他の有名人の曲を歌うべきだ』と書いていていた。
そのことは
このことは[×××]には言わないでください。
私の恩知らずの一例として受け取られるかもしれませんから。

私は今、退屈で疲れた黒い日の一つです。
私は退屈で疲れている日です。」

×××は恐らくサンドの事であろ、
ポーリーヌが金持ちだからといって、ショパンの知的財産を奪っていいということではないのだ。ショパンは、ずっとこのような目に遭わされて来たのだ。ポーリーヌまでもがショパンを裏切りるとは…
まだベルヌ条約(著作権)がなかった時代だった。
その上、
ロンドンではショパンは知名度が低いどころか、誰も知らない無名のアマチュアと見なされていたのだ。
ショパンを嫌う新聞社が、
ポーリーヌがショパン作曲のマズルカを歌った事を批判したのだ。

これは、ショパンのマズルカを歌ったポーリーヌのショパンへの裏切りか、それとも、
ポーリーヌが国に無断でショパンを歌ったことへの弾圧か、ショパンにしてみればどちらだとしても、ポーリーヌの裏切りでしかない。
ショパンは自分の曲は自分の曲でしかないのだ、
ポーリーヌが編曲など出来ないことはショパンはノアンのサンドの館でポーリーヌと過ごした日々を思い返してポーリーヌの実力の程はショパンはよく知っていたのだ。
だから、ポーリーヌ編曲はあり得ないことなのだ!
とショパンは憤りを通り越して、気分は
真っ暗闇だとロゼールに伝えた。

ショパンは自分の血と涙の曲がねじ曲げられることが昔から一番許せないことと考えていた。

「明日、私は、怠惰で不平不満を言う付き人のイタリア人を解雇することにしたのだ。」
ショパンは前から付き人のイタリア人には
うんざりしていたのだが、ポーリーヌのこの
出来事で目が覚めたのだ、付き人イタリア人はポーリーヌの紹介であったからショパンは我慢して来たのだ。
しかし、このポーリーヌの裏切りでショパンは踏ん切りが付いたのだ。
「日曜にはもう一人雇うことになっている。
私は新しい優秀な付き人のダニエルを雇うつもりです!
あなた(ロゼール)のパリでの生活が悪くならないことを願っています。
フランショームはどうしているのか?
私の愛を彼に伝えてください。」

必ず、ショパンはフランショームのことを
友人達に書き添えてフランショームからは、
全く音沙汰がないことを知らしめた。

 「私もグシマーワに手紙を書きますから、
あなたも数行でいいので私に返事を送ってください。あなたに神のご加護を。
 あなたに献身的なショパン」
追伸として、ショパンは書いた…

「家族に手紙を書く暇がありません!!
(あなたが、もしもグシマーワに会ったら、
私が毎日手紙を書き始めたのに、私は書き終わらなかったと伝えてください。
私はひどい精神状態にあります。
私は彼を愛していて、彼に手紙を書きたいと思っています。
ショパンは毎日のように誰かに書簡を書いていた、だから休む暇がないのだ、ショパンにとって一番大事なワルシャワの家族へ書くことを後回しにして、友人の安否を気遣っていたショパン。
そして、ショパンはいつも書いているうちに長く長くなり、書き終わらないことは毎回の事であった。

 


サルトリス夫人邸宅
1848年6月23日昼公演
このコンサートはショパンとテノール歌手のマリオも出演した。
ショパンの名前が刻まれた記念プレートが1949年に設置された。

ファニー・ケンブル(アデレード・ケンブル・サルトリスの姉)
(1809年11月27日– 1893年1月15日)
女優、作家、奴隷制度廃止論者
戯曲、詩、11巻の回想録、旅行記、演劇に関する作品を出版した。
有名な舞台俳優の家系に生まれた彼女は、ロンドンで成功を収めた後、1834年にアメリカ南部の裕福な相続人であるピアース・バトラー(1806-1867)と結婚しアメリカツアーを成功させました。夫は妻の行動を制限しようとし、反奴隷主義の意見を公にするなどしたため、1847年に彼女は離婚を申請し離婚に至った。そして彼女はシェイクスピアの朗読を中心とした女優活動を再開した。
彼女は南北戦争の勃発でアメリカを離れた後、彼女はイギリスに戻り、奴隷制度廃止論者の感情に強く味わわれた彼女の観察の日記である『日記』(1835年)
と『Journal of a Residence on a Georgian Plantation in 1838-1839』(1863年)を出版した。現在も南部のプランテーションの生活を知る上での貴重な資料と言われている。
彼女はロンドンに住み、作家のヘンリー・ジェイムズと親交を結び社会活動をした。
2000年ハーバード大学出版局は彼女のジャーナルから編集された編集物を出版した。
アデレード・ケンブル・サルトリス
(1815年11月ロンドン- 1879年8月4日 )
オペラ歌手、作家 、ケンブル劇場の家族の一員。
彼女は有名な女優で奴隷制反対活動家のファニー・ケンブルの妹でした。彼女の父親は俳優のチャールズケンブル、母親のマリアテレサケンブルでした。
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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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