2020年記事からディレクターズカットお届けします

「ロゼールへ・・・モーツァルトのレクイエムの小型スコアをノアンへ送ってください・・・ショパン」
パリで大物を招いて音楽の集いを開催したばかりのショパン、楽しいはずの集いだったが、ショパンの本当の友人と呼べるのは招待客のうちのただ一人、ドラクロワだけだった。
一番の友人で秘書でもあったフォンタナがパリにいないショパンは、弟子としては今一つ不出来だが、ショパンに献身的なロゼール嬢に作曲の助手も頼るしかなかった。しかし、
写譜一つがロゼールでは気に入らないショパンは、一人で作曲の仕事をこなすことは
困難が伴った。
モーツァルトのレクイエム・・・それはショパンの人生を予感させる胸騒ぎだ。
ショパンは17歳のときに〈ラ・チ・ダレム変奏曲=モーツァルトの「ドン・ジョヴァンニ」の『お手をどうぞ』による変奏曲〉を書いた。
ショパンはモーツァルトを少年の頃からよく勉強していたのだ。そして、ポーランドでは「ドイツ人がモーツァルトを天から授かったように、ポーランド人は天からショパンを授かった」と、
「ショパンの才能はモーツァルトに匹敵する」と言われていたのだ。
レクイエムを書くことは作曲家にとっての人生最大の頂点である。
そのレクイエムの創作はショパンはまだ手付かずであった。
ショパンは信仰深い家族に育ち、子供の頃から教会でオルガンを演奏したりワルシャワを出てからも教会へ必ず通っていた。その、ショパンがレクイエムの創作を意識しないわけがないのだ。
ショパンより7歳年上のベルリオーズはというと、
レクイエムを1837年33歳で書き上げている。1837年3月末にフランス政府からの依頼で7月革命の犠牲者と1835年のルイ・フィリップ王暗殺未遂事件の犠牲者のための慰霊祭を1837年7月28日に演奏するためのレクイエムであった。もし、これが本当ならば、4か月程であれほどの超大作を書き上げているということになる・・・。そして、ルイ・フィリップ王とショパンは敬遠の仲なのだ。
ちょうどその前年にショパンはメンデルスゾーンから音楽祭の招待といっても、
メンデルスゾーンの作曲の下働きであろうと思える、その仕事を受けるようにシューマンを使ってショパンを誘い出そうとして来たメンデルスゾーンだった、そして、その返事をベルリオーズにするようにと更にショパンにプレッシャーをかけたメンデルスゾーンであった。
ベルリオーズとは1834年からショパンは作曲家のヒラ―やリストなどとベルリオーズのモンマルトルの自宅へ呼ばれるようになっていた。(ブログ記事2019.02.13 16:29 Chopin, ベルリオーズとオペラとは)
ショパンはその頃から、金銭的なこと作曲のことで懲りることが度重なり、だんだんと仲間だったはずの作曲家とは交流しなくなっていた。
それから時は経ち、ショパンの人生にとっては晩年に向かっていた。。。ショパンはそろそろ、自分の作曲家人生のためにレクイエムが書きたくなったていたのかもしれない。
しかし、昔のように、その構想を相談できるフォンタナがいないショパンだった。
ショパンはロゼール嬢に頼んだ。「5番地または9番地の[オルレアン広場]
のアパルトマンに置いてあるモーツァルトのレクイエムのスコアをノアンへ送ってください。ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージの〈スターバト・マーテル(悲しみの聖母)〉のスコアと一緒に置いてあります。
サンド夫人からも敬意を表した書簡を書くそうです。」
この書簡とは、ワルシャワのショパンの姉ルドヴィカへのサンドからの手紙のことであった。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ペルゴレージ
( 1710年1月4日イタリア、イェージ - 1736年3月17日ナポリ王国)
イタリアのナポリ楽派、オペラ 作曲家、バイオリニスト、オルガニスト。代表作品は、スタバト・マーテルとオペラ・ラ・セルバ・パドロナ(メイド・ターンド・ミストレス)。
彼の作品はオペラや神聖な宗教音楽が多く含まれます。
彼は、マルケ州イェージ生まれ。幼い頃から音楽の才能を現し、ナポリ音楽院に入学する。1731年に卒業し、卒業作品として音楽劇『グリエルモ・ダキタニアの改心』を作曲。
1732年、オペラ・ブッファ『妹に恋した兄』を初演。1733年8月28日、サン・バルトロメオ劇場でオペラ『誇り高き囚人』を初演。この作品の幕間劇として作曲された『奥様女中 』で大成功を収め、オペラの歴史に大きな変革をもたらし1734年にはナポリ楽長に就任。
1735年、オペラ『オリンピアーデ』をローマで初演するが失敗しナポリへ戻る。宗教音楽の作曲に取り組むようになり、彼は1732年に激しい地震の犠牲者になったナポリの街のために、10声、二重合唱団、2つのオーケストラ、2つのオルガンのための荘厳なミサを作曲した 。『スターバト・マーテル 』(悲しみの聖母)は彼の最後の作品となった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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