F.Chopin、ショパン、ロンドンでショパンの最初ファンはアンソニー大尉と中産階級の長屋に住むジェーン婦人

ショパン肖像画から、ジェーン婦人肖像画からイメージ✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎✳︎
ショパンはサルトリス夫人邸宅で演奏をしてから二週間後、ファルマス卿の邸宅でマリオやリンドも出演した昼公演で演奏をしたが、
この時のお客はスターリング嬢が集めた客だった。
その中の一人にジェーン・ベイリー・ウェルシュ(1801年−1866年)が来ていた。
彼女はこの時47歳で、随筆家の夫トーマス・カーライルはこの時53歳(1795年12月4日– 1881年2月5日)は、スコットランドの歴史家、風刺作家、エッセイスト、翻訳者、哲学者、数学者で教師という幾つもの肩書きを持っていた。彼女はこの気難しい夫と
ロンドンの中産階級の住む長屋で不幸な生活を送っていた。
その彼女はロンドンで初めてショパンのファンになった女性でした。パリではキュスティヌ侯爵がショパンの最初で最後の唯一のファンであったが、ロンドンで初めてショパンのファンになったのは中産階級の不幸な結婚生活と噂されていたジェーン婦人だった。
ジェーン婦人はショパンの音楽とパフォーマンスに魅了され、友人のスターリング嬢に
自分が書いたショパンへのファンレターをフランス語に訳してからショパンへ渡して欲しいと頼んだのだった。
ショパンはこの時のファルマス卿の邸宅での昼公演は「でも...でも... 守らなければならない規則が多すぎるため、付き合うのは難しい。」とロゼールに話していたことを思い返せば、例えば中産階級の一般客とは交流しないように、などショパンのような音楽家がファルマス卿の邸宅でファルマス卿の許可なく自由に話すことは禁止などなど規則があったのだ。
ジェーン婦人はショパンに
自分がショパンの演奏に感動したことと、
アンソニー・スターリング大尉から預かっていたショパンの演奏に感銘した詩をスターリング嬢に送った。
「スターリングさんへ、ジェーンより…
フレデリック・ショパン氏は英語を話されないし英語を理解していないのです。
私はそれを非常に残念に思っています。
しかし、彼は英語を読むことなら出来るでしょうか?
彼が英語を読めることを願って、彼の名誉と栄光を称える詩をお送りします。
ジョンの兄、アンソニー・スターリング大尉が書いたものです。(現存しない)
彼は先日、ショパン氏のコンサートに私と一緒に行きました。
これらの詩は、アンソニー大尉の詩的な表現を構成する狂気の散文の種に属するものではないと思います。
ですから、ショパン氏に見せる価値があると思います。
私の暗黙の了解のもとに。少なくとも彼がその意味を理解できますように。
あなたも魅力的な詩を書いていらっしゃるので、あなたは彼のためにこのアンソニー大尉の詩をフランス語に翻訳してくださると思います。」
残念ながら、このアンソニー大尉の詩はスターリング嬢がどうしたか不明であり現存しない。
ジェーン婦人は続けて、自分のショパンの音楽への想いを綴った。
「私はショパンの音楽を他のどの音楽よりも好きです。それはむしろ、彼の魂の一部を反映したものであり、彼の人生の断片が、私たちに与えられたものなのです。
聴く耳を持ち、理解する心を持った人々に与えられた彼の魂と人生の断片の反映とでもいいましょう。
私は、彼の作曲した曲はどれも素晴らしいと思います。彼が作曲した曲はどれも、彼に与えられた日数から中で、彼の作曲の一つ一つが 、ああ、彼が英語を理解していたらと思うと、彼の心の内を私が開いてあげられればいいのに、と思ってしまうのです。」
ジェーンのスターリング嬢に頼んだ手紙は途中のような形で終わっている。手紙は断片しか現在しない。
ショパンのロンドンでの2回目の演奏会は
1848年7月7日の昼公演ファルマス卿の邸宅にて開かれた。(邸宅は第二次世界大戦中に破壊された。)
スターリング嬢はショパンにこの手紙を渡さなかった可能性が高い…。
ショパンはこの日の演奏は上手く行ったと思ったが、ファルマス卿の邸宅では社交的に振る舞う自由はなかった…。
ショパンのロンドンでの2回目の演奏会
1848年7月7日昼公演ファルマス卿の邸宅にて開かれた。テノール歌手マリオ、ポーリーヌはショパンのマズルカ他を歌った。リンドも出演した。(邸宅は第二次世界大戦中に破壊された。)現在は記念プレートが飾らせている。
ジェーン・ベイリー・ウェルシュ
(1801年1月14日スコットランド・ハディントン−1866年4月21日ロンドン・ハイドパーク)
ジェーン・ベイリー・ウェルシュは1801年1月14日、イースト・ロージアンのハディントンに生まれた。彼女の母親はグレイス・カプレギル、父親は医師のジョン・ウェルシュ博士(1770-1819)でした。
ジェーンの夫は随筆家のトーマス・カーライルでした。
トーマス・カーライルとの結婚 は、
ジェーンの家庭教師エドワード・アーヴィングが彼女をカーライルに紹介したことがきっかけでした。二人は知的な関係を築きました。二人は1826年に結婚し、最初の6年間はスコットランドの農場に住んでいました。
トーマスはいつも執筆に忙しく、ジェーンは夫の仕事を成功させるために家事労働に専念しなくてはならなかった。
カーライルズの結婚はプラトニックな関係と信じられていて二人には子供がいなかった。1834年から1866年ジェーンカーライルが亡くなるまで二人はチェルシーのロンドン地区チェイニーウォークの中流階級の住む長屋のに住んでいた。二人はそこに32年間の間に34人の女中を雇いました。使用人部屋はなく女中は台所で寝ていました。
このロンドンの下町での生活は夫が邪魔されずに執筆に集中できるよう、夫を近所の
雄鶏の鳴き声や犬の遠吠えから守るためにの彼女の戦いとなりました。
フィリス・ローズは、「結婚におけるジェーンの役割の典型的な表現は、夫を雄鶏の鳴き声から守るための彼女の継続的な戦いでした」と書いている。
この生活の日記は膨大な手紙残されており、夫婦のお互いへの愛情は些細な喧嘩の積み重ねから感情のズレが生じたことを表している。
彼女は1866年4月21日にロンドンで亡くなり、ハディントンのセント・メリーズ・コレゲート・チャーチに父親と一緒に埋葬された。
エディンバラのジョージ・スクエアの西側には、ジェーンの記念プレートが立っている。

トーマス・カーライル
ロンドンにあるトーマス・カーライルの像
アンソニー・スターリング 
1805 – 1871年3月1日)
イギリスのバス勲章大佐
イギリス陸軍の将校であり歴史家
ジョン・スターリング(1806年7月20日-1844年9月18日)はスコットランドの作家で彼の弟。
✳︎ショパンの演奏に感銘を受けた大尉は英語の詩をショパンに捧げたが紛失しており現存しない。
バス勲章の最も名誉ある騎士団のグランドクロススター

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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