F.Chopin、ショパン、ファルマス卿のコンサートでポーリーヌと和解…しかしお金にはならず、本当の裏切り者は誰か…

ポーリーヌ肖像画より、ショパン肖像画からイメージ
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ショパンはファルマス卿でのコンサートの翌日からグシマーワに10日間かけて書簡を
書き溜めていたことをグシマーワに詫びた。
「…この数日間(パリでの暴動)、神はあなたの安全を守ってくださいました。
双方の頑固な敵意の本当の始まり(おそらく意図的なもの)でした。
これまでのところ、すべてのビジネスは非現実的で、人々の頭の中や想像の中、本の中にしか存在しない。それは、すべて
教育、正義、連帯の名の下に。…」
ショパンはパリ暴動の原因は教育、正義、連帯を言い訳に経済を推し進めて来たことが裏目に出たのだとグシマーワに説いた。
そして、ショパンは未来を予測する、まるで予言者であった。
「しかし今、このすべての汚れは
殉教者の場合のように、○○○を呼び起こすだろう。……
…終わることはありません。理念のための内戦の後には、今日我々が考えているような文明の崩壊が避けられない。
つまり数百年後、あなたのひ孫たちは自由なポーランドから生まれ変わったフランスに到着するだろう。
生まれ変わったフランス、あるいは同じ場所にある別の何かに到着するだろう。」
ショパンは相変わらず世界情勢をいつも厳しく見極めていた。
そして、
ファルマス卿の邸宅でのコンサートはポーリーヌも出演し、ショパンのマズルカを歌ったことをグシマーワに報告した。
ショパンの出演料は100ギニー(500万円)貰えるかわからないと、ショパンは生活を不安に思っていた。なぜなら、ロンドンでは、既に音楽シーズンが終わってしまい、次の仕事は半年以上無いに等しいからなのだ。
結局、貰えたのは幾らだったか不明だが、「たったの200ギニ(1千万)しか残らなかった」と話したショパンであった。
物価の高いロンドンの家賃と馬車代金を差し引くと、残りは200ギニ(1千万)だったと言うのだ。この200ギニではイタリアなら1年生活出来るがロンドンでは半年しか生活出来ず、先行きが不安なショパンであった。
お金の無いショパンはスターリング嬢の実家のスコットランドへの誘いに応じるしかないことをグシマーワに相談していた。
スターリング姉妹は親切なのだが、それが、
うっとうしい時がショパンはあることは
変わらなかった。
ドーバ街のアパルトマンはショパンは自分のプレイエルピアノだけで充分であったのだが、ショパンにしてみれば、ありがた迷惑なエラールとブロードウッドの二台のピアノに場所を取られ、三台のピアノのために広い部屋を借りる家賃が恐ろしい程かかるのである。「三台のためにまだ広い部屋に住んでいるのだよ…」
とグシマーワに愚痴も言いたいショパンだった。
提供された二台のピアノを押し返すことなどしたら恩知らずと言われかねないためショパンにはそれは出来ないのだ。
ショパンは気が滅入っていたが
「あの馬鹿げたイタリア人とは縁を切りました。」これはすっきりしたと話した。
新しい下男(ダニエル)が優秀だが、
ショパンは自分の健康状態を考えると心が惨めになり、その自分の気持ちを消そうとしていたショパンだった。「…ひとりで考え込まないようにしています。…」とグシマーワにペンで話しかけるショパン…。
そして、あのサンド一家のことはロゼールからショパンに報告があり、ショパンはロゼールは親切な人だとグシマーワに話したが、
これは裏返しな部分も含まれていた。
ショパンはロゼールは単におしゃべりで、
使い用なのだと知っていた。
ソランジュのことを心配していたショパンだが、ソランジュの夫クレサンジェは何を血迷ったのか、彼は情勢の悪いロシアへ行くと言っていることをロゼールからショパンは報告を受けたのだ、それを辞めさせるようにグシマーワにショパンは頼んだ。ショパンはロンドンに居ても気の休まる暇はなかった。
そして、ファルマス卿の邸宅でのコンサートは、実、
ポーリーヌの兄マヌエル・ガルシア氏がファルマス卿の邸宅の客間を借りてくれたのだ。ショパンに出演するように話しを持ちかけてくれたのはポーリーヌの兄だった。
これは、ポーリーヌがショパンのマズルカを
ショパンの名前を削除して歌ったことへの
ヴァルド家のショパンへのお詫びであったのだ。
ポーリーヌは弾圧に遭っていたとは言え、ショパンには許し難いことだったからなのだ。
兄マヌエル・ガルシアは妹ポーリーヌに
ショパンのマズルカとしてファルマス卿の邸宅で再度、歌うようにポーリーヌを説得したのだ。ふたりはショパンの自宅にお詫びに来たのであった。
兄マヌエル・ガルシアは親の代からオペラ歌手でヴァルド家は全員が歌手で有名なのだ。ショパンとポーリーヌの感情がこじれたままでは社交界でのヴァルド家の世間体が悪くなるからなのだ。兄マヌエル・ガルシアは『妹のポーリーヌを許してやってください』とショパンに詫びたのであった。
けれども、パリに居るサンドはこのショパンのマズルカの経緯(ショパンを削除して歌ったこと)をロゼールから聞いて知っていた。ショパンはロゼールへの書簡でポーリーヌの裏切りを話したからなのだ、ショパンは誰が本当の裏切り者かを試していた。これでロゼールからサンドへ話が漏れたことがショパンに判明した。
サンドはショパンの低迷を喜びポーリーヌへ、『哀れなショパンさん、お気の毒に』という内容の書簡を送りつけたことを、その後ポーリーヌと和解していたショパンはポーリーヌから聞き出したのだ。サンドはまだショパンを憎んでいたのか、「サンドはパリで良い母親のふりをして相変わらず嘘つきであろう!」と
ショパンは逆にサンドを哀れんだのだった…。
こうしてポーリーヌとショパンの友情は復活したのであった…。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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