F.Chopin、ショパン、自分を頼って来る人を助けていた…そしてショパンの弟子達とは…

ショパン肖像画よりイメージ
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その頃、パリの6月蜂起で負傷した使用人デュポスをロゼールは見舞っていた。ロゼールからショパンは知らされて、「早くよくなるようにと彼を励ましてあげてください」とロゼールに伝えた。
ショパンはファルマス卿の邸宅でのコンサートで得たお金だけでは、イタリアでは1年暮らせるが、ここロンドンでは半年も暮らせないと先行きが不安な日々を過ごしていた。
そして、ショパンはサザーランドの城の女王の子供の命名式に招待され女王の前で演奏した出来事で、まだグシマーワに話していなかったことをグシマーワに話さずにいられなくなった。
サザーランド公爵夫人のお城での演奏は実は…、
「私は女王の前で演奏はしましたが、
私は宮殿では演奏しませんでした。」実は、ショパンは宮殿では演奏させてもらえなかったのだ。
「サザーランド夫人はロンドンを離れました。王室の音楽監督が、表敬訪問をしなかったことで、私に文句を言ったのかもしれません。そして、私が
フィルハーモニーでの演奏を拒否したからかもしれません。半年間のシーズンであれば
私はここで自分のやり方で徐々に評判を高めていくことができました。
しかし、現状では時間が短すぎます。ここでは何もかもが混乱しています。」
パリ情勢も混乱していたがロンドンの宮廷も混乱していた。しかし、ショパンが宮殿で演奏させてもらえなかった本当の理由はフィルハーモニーでの演奏を拒否したことへの弾圧なのだとショパンはグシマーワに話した。
 その後は、ショパンは夜は外出を避けたいのだが、毎晩のように貴族のパーティーに出席しなければならなくなった。
「先週はコンバーミア侯爵夫人のパーティーでは、ケンブリッジ公爵夫妻、ワイマールの老大公夫人、コンバーミア夫人にお会いしました。ワイマールの老大公夫人、ヘッセンの王子にもお会いしましたが、皆さんとても親切でした。私は、ある界隈ではすでにそれなりに知られていますが、それにはまだ時間がかかります。」この毎晩のショパンの社交の苦行により、ショパンはロンドンの一部の新聞には好意的に書かれるようになり、イギリス貴族の一部の社交界では徐々に知られるようになってきていた。しかし音楽シーズンはすて終わってしまっていた。
安定した収入がないショパンは自宅で少数の貴族の夫人や、その娘の弟子のレッスンを
仕方がなくしていた、しかしその弟子達は
驚いたことに…
「しかし、ここでは思うようにギニーの収入が得られないのだ。
ここの人たちはひどく嘘つきで、
何もいらなくなるとすぐに
田舎に行ってしまうのです。
私の教え子の女性の一人は、すでに田舎に行ってしまいました。
彼女は9回分のレッスン代金を払っていません。
他の生徒たちは、週に2回のレッスンを受けていても、たいてい1週間は休んでいるのに実際よりも多くのレッスンを受けているように見せかけている人もいます。」
ショパンはレッスン代金を貴族の夫人や娘に踏み倒されていたのだ。
そのくせ、弟子達はお金は払わないで名声だけは得たいがために、有名人になりつつあるショパンのことを引き合いに出して、
『ショパン様のレッスンを何回も受けたのです』などと、レッスンを怠けながら弟子達は見栄の張り合いの嘘を付いているというのだ。
「驚くことではありませんが、彼らはあまりにも出来もしない多くのことをやろうとするのですが、彼らは何でも少ないことしか出来ません。」
弟子達は出来もしない身の程知らずの難しい曲を誤魔化しながら弾き、出来るふりをして実際には何も出来ていない、しかも、お金を払わず田舎に逃げている人ばかりだとショパンは話した。
まだまだショパンの弟子への怒りは続いた…
「ある女性は、1週間だけレッスンを受けるために、リバプールから1週間のレッスンを受けに来た女性がいます。
私は彼女に5回のレッスンを行い、彼女を幸せに送り出しました。
例えば、ピール夫人はとても才能のある彼女の娘にレッスンをして欲しいと私に頼みました。
しかし、彼女にはすでに別のピアノ教師に習っていて、彼女は週に2回、私の半額で、そのレッスンを受けています。そのため、彼女は自分の財布が潤うように、私のレッスンは週に1回だけにしてほしいと私に言いました。
それは単に私からレッスンを受けていると彼女は公言したいだけの動機のため、
彼女はおそらく2週間後には私のレッスン受けることを辞めてしまうでしょう。. .」
レッスン代金を踏み倒す弟子、または、レッスン代金を値切る弟子達…売名行為が目的で音楽を本当に習う気は全くない、そういう身勝手な嘘つきばかりで、ショパンの財布はいつも空っぽであったのだ。
だから、ショパンはスコットランド行きしか考えられなくなっていた。
「スコットランド行き…
それはいいことかもしれませんが、今の私には何の望みもありません。…」
ショパンはグシマーワに心情を吐露すると、
 書簡の最後に書き加えた、
「ソランジュがどうしているのか?
彼女の母親は?ロゼールは?
ちなみに、あなたが私に送ってくれたその手紙は、ばかげた者からの物でした。
私がパリを離れるのを手伝ったウィーマンという名前[ポーランドの反政府勢力に加わるために]、そして今、彼がパリに戻ることを可能にするためにヴィーマンは私にお金を要求して来た。
愚か者!私は1年近く彼を養って来たのだが、彼はどうしても行きたい主張した。
彼は最初か2番目の部隊の派遣団であり、今はまた困難になっている。なんて事だ、
人々は何という混乱に陥っているのか!
どうか神が彼らを守り抜いてくださいますように。すべての私の愛を。
あなたに最も献身的なショパン」
お金のないはずのショパンはなんとポーランド亡命者の自分を頼って来る友人を食べさせていたのだった…。
コンバーミア子爵(1773年11月14日デンビーシャー、スレウェニホール−1865年2月21日クリフトン、ブリストル、ブリストル)
国籍イギリス人
1787年12月24日にビープリッヒで生まれたヘッセカッセルのウィリアム王子は、1867年9月5日にコペンハーゲンで亡くなりました。ヘッセンカッセルのフレデリク3世の息子。1810年11月10日、デンマークのルイーズ・シャルロッタ王女と結婚。
ヘッセン王子(1820年11月 26日コペンハーゲン−1884年10月 14日フランクフルト)
彼は1844年にサンクトペテルブルクでロシアのニコライ1世の娘であるロシアのアレクサンドラニコライエフナ大公爵夫人 (1825–1844)と最初に結婚しました。で結婚第二1853シャルロッテンブルクにプロイセンのアンナ(1836年から1918年)の娘プロイセンのチャールズ。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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