F.Chopin、舞台を断る真実に苦悩するショパン…芸術の廃退か…

ショパンはサザーランド邸宅には招かれたが王宮からの招待はなかった。それは、ショパンがフィルハーモニック協会とのコンチェルトの共演を断ったからに他ならなかった。
ショパンは自分の芸術家としての信念を曲げるわけにはいかなかった。
「どうやって試行錯誤し、パッセージを繰り返すことができるだろう?」本番さながらのような公開リハーサル、打ち合わせもなし、ゲネプロもなしで本番が上手くいくわけがないとショパンは心で嘆いた。しかも、フィルハーモニック協会の主張はこうだ。
「彼らは私のコンチェルトや、私の曲をよく知っていると言っている、その理由は
地元の有名な女流ピアニストのマダム・デュルケンと昨年一度だけ共演したからだと主張するのです。
そこで、私はフィルハーモニック協会に感謝の気持ちを伝えたうえで、
その申し出を断りました。
ある新聞は私がフィルハーモニー管弦楽団との共演を断ったことを酷評したが、私は気にしていません。晩餐会の後は、多くの新聞が私に良い評価を与えてくれたのです。
但し、タイムズ紙は例外でした。批評家の
デイヴィソン氏(故メンデルスゾーンの生き写し)は、私と面識がないのです、にも関わらず彼は、私がメンデルスゾーンの敵対者だと思い込んでいるのです。
私にはそれはどうでもいいことなのですが、
しかし、この世の世界というものは、
常に真実を伝えたいという以外の何らかの不純な動機があるものなのです。」
ショパンをあれほど苦しめたメンデルスゾーン(1809年2月3日−1847年11月4日)はこの時既にあの世へ召されていた。
ショパンはメンデルスゾーンとの遺恨は今更どいでもいいと思っていた。しかし、未だにメンデルスゾーンの亡霊が取り憑いているかのような評論家デイヴィソンはロンドンのタイムズ紙でショパンの晩餐会の演奏を酷評したというのだ。
デイヴィソンは評論家であったが、実は彼は作曲家とピアニストを目指していたのだ。
彼はメンデルスゾーンを信仰していたためショパンの成功を斜め横から妬ましく見ていたひとりであった。
そして、女流ピアニストのマダム・デュルケン、彼女はドイツでステージパパの下でスパルタで教え込まれ早くから天才子役として活動してきたピアニストであった。ショパンは若くして亡くなってしまった天才子役ピアニストをそれまで見てきた。それ以来、ショパンはその類いのことに関わらないようにして来た。
そして、フィルハーモニー管弦楽団はマダム・デュルケンと共演したからショパンの曲を解っていると安易な姿勢を変えるようにはないのだ。作曲家ショパンにしてみたら、
「話にもならない、作曲家を軽んじた芸術の冒涜…」なのだ。
はらわたが煮え繰り返るのを堪えるショパンだが、楽譜も出版した以上、誰の手に渡るかわからない。献呈者が発表し演奏してくれる駆け出しの頃のショパンではもうないのだ。ショパンの曲は一人歩きをはじめていた。
ロンドンの晴れ舞台でショパンの曲を演奏するのは自分の弟子でもないドイツ人のマダム・デュルケン。彼女は1830年3月1日にエルツの協奏曲を演奏して以来ロンドンの舞台で有名であった。アンリ・エルツといえば(1803年1月6日 ウィーン- 1888年1月5日パリ没、は、オーストリア出身 のフランス人ピアニスト、作曲家、ピアノ製作者)ショパンがパリに来た頃酷い目に遭わされたショパンの天敵ではないか…。
彼女はベートーヴェンが得意だったのだ。ショパンのコンチェルトは作曲家ショパンの意図を無視して、ショパン以上に派手に弾いて見せようとしていたのかもしれない。
ロンドンの芸術舞台はもはや娯楽だったのか…ショービジネスに染まっていた。
ショパンはロンドンでは何が受けるか知っていた。自分の作曲家魂を無視したオーケストラとは到底共演など出来るはずがなかったのだ。退屈な人々は面白くおかしく奇抜なことしかわからないのだ、ショパンは中産階級や貴族は音楽の良し悪しなど全くわからないのだと見ていた。大量生産により犬の数ほど増えてしまったピアニストがロンドンで凌ぎを削っている、彼らは人々をあっといわせる一瞬芸人を目指しているようにしかショパンに見えない…
芸術の名のもとに見せ物芸人が増えた舞台にどうしてショパンが立てるであろうか…。
ショパンにとって荒れたロンドンは荒れた舞台だったのだ…。

デュルケン・ルイーズ
(1811年3月29日 ハンブルク– 1850年4月12日ロンドン)はドイツのピアニスト、作曲家
彼女はピアニストで作曲家の
※グルントの弟子であった。
【※フリードリヒ・ウィルヘルム・グルント(1791年10月7日、ハンブルク– 1874年11月24日、ハンブルク)ドイツの作曲家、指揮者、教師。彼の父親は(ピアノ、ヴァイオリン、チェロ、コントラバス)をハンブルクのカンター、クリスチャン・フリードリッヒ・ゴットリーブ・シュウェンケに習いました。1819年、彼は右手の神経疾患のためにコンサートピアニストの巨匠としての表舞台から引退し作曲家と指揮者になりました。】
グルントの弟子だった彼女は10歳の時ハンブルクで人前で演奏した。1823年にはベルリンで、25年にはライプツィヒで兄と演奏しもてはやされました。
彼女は順調1828年に結婚しました。
そして
ドイツからロンドンに演奏の拠点を移した
た彼女は女王のお気に入りになりました。
ロンドンで彼女の最初の公演は、1829年にエラ氏のソワレの1人でした。
ロンドンフィルハーモニック協会で彼女は1830年3月1日にヘルツの協奏曲を演奏して以来、彼女はロンドンの音楽界で最も顕著なピアニストになりました。
彼女は父親や兄弟が敷いたレールを早くから順調に歩んでいました。また、
彼女は王室の上流階級のお抱えピアニストになりました。
彼女の演奏はグルントから習い強いられた方法でした。彼女は4つの言語を話し、ドイツ、フランス、イタリア、イギリスを巧みに操ったと言われている。
彼女は成功したため、彼女の稼ぎは並外れていました。
そのため彼女の先生のグルントは見苦しいほど自慢していると世間は冷ややかに見ていたと言われている。グルントの背後にはビクトリア女王がいました。
しかしながら、子役でデビューした彼女は
大成しませんでした。実際、彼女は若すぎる頃から無理な演奏活動を強いられたため、自分の力を過剰に使い果たしていました。彼女は重い病になり、
1850年4月12日に39歳の短い生涯を閉じました。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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