フレデリック・ショパン、ロンドンで生き延びるためのショパンの選択とは…

グローテ夫人とリンド婦人と伝説の歌姫マリブランとショパン♬イメージ♬
ショパンはオペラ歌手のリンド嬢とロンドンで交流を深めることはショパン自身が社交界での評判を良くするためでもあった。
声が20代にして既に衰えてしまっていた
リンド嬢は実はお嬢様ではなかった。彼女は
故郷のスエーデンで既に結婚していた。
ショパンの敵(かたき)であったメンデルスゾーンはリンド嬢のパトロン、そのメンデルスゾーンが亡くなりロンドンで弱っているリンド嬢にショパンは親切にした。
というより、リンド嬢は元々ショパンに興味があったがメンデルスゾーンが生きているうちはショパンと仲良くするわけにはいかなかったのだ。ショパンは弱っているリンドに親友のポーリヌを紹介した。リンド嬢の我流で誤った発声で痛めた喉をどうしたらよいかポーリヌをリンドに紹介したのだ。ポーリヌはノアンの館以来のショパンの親友でショパンはポーリヌがノアンに滞在中も無理な練習をしないことを知っていた。ポーリヌは喉を休めていたのだ。ポーリヌは一家でオペラ歌手であるのだ。父親は有名テノール歌手のマヌエル・デル・ポプロビセン・テロドリゲス・ガルシア、前にも書いたが、ポーリヌは
リンドとは全く違う家庭環境で育った有名音楽一家なのだ。
ポーリヌの姉も歌手で歌姫と呼ばれていたが残念なことにショパンがロンドンに来る前の1836年に亡くなっていた。
彼女の名はマリア・フェリシア・ガルシア(1808年3月24日パリ−1836年9月23日、マンチェスター、イギリス)彼女は不運な若すぎる死を遂げたため伝説の歌姫となった。
それは、ポーリヌの代役をロンドンで演じた後のことだった。
オペラ好きのショパンだが、ラ・マリブランと呼ばれていた彼女の歌声は聴いたことがなかった。ロンドンでも聴くことが出来なかったショパンだが、
もしも、ラ・マリブランが生きていて『夢遊病の女』を歌ったとしたら、リンド嬢のようにはデリケートな表現は出来なかったであろうと、ラ・マリブランを信仰する人々の評判を知っていたからなのか、それとも、
比較できるということは、ショパンは本当はパリでラ・マリブランを聴いたことがあったけれどショパンとしては何かがあったのであろう…。とにかく、ラ・マリブランよりは
リンド嬢の方がマシだとショパンはリンドの方に軍配を上げたのだ。
リンドの話題を終えたショパンは、
グローテ夫人に酷い目に…いや、親切にしてもらったことを決して忘れない…続きを書いた。
グローテ夫人に女王の劇場のボックス席に招いてもらった真実は、ショパンは前日に夜通しリンドに突貫工事でどうしたら上手く誤魔化して歌えるかを伝授したことへの報酬チケットだった…そのチケットを握り締め最上階まで息を切らしながら命がけで聴きに行ったショパンなのだ。
「グロートさんは、とても親切な方ですが、とても過激な方です。
彼女は、公爵や領主など、興味深い人々を大勢受け入れています。
学者、つまり社交界の金持ちばかりです。彼女は、深々とした口調で話し、彼女は、
真実をオブラートで包むようなことはしない。
ある人が『グローテ夫人をどう思いますか?』と質問しました。すると、ある人はこう答えた。
"グロテスクな女だ "とね。」
つまり、グローテ夫人は得体が知れない人と評判なのだ。
ショパンが「階段は息が切れて上がれない」と言えば、更に更に最上階にある席を、
『ショパンさんのための最高の席ですからね。ほほほ』という具合に要するにグローテ夫人はサディストなのである…。
ロンドンでも音楽家の地位は低かった、
表面では煌びやかな席に招かれるショパンだが現実は様々な奴隷扱いに耐えるしかなかった。
だからショパンはグローテ夫人は親切な人なのだと続けた…
「しかし、彼女は心優しい。
リンドさんと一緒に彼女の田舎に招待してくれたました。
しかし、私は行くことができなかった。」
次の勧誘はショパンは断ったのだ。女王の劇場を一度でいいから観てみたいというショパンの小さなプライドの目的は達成されたからなのだ。ショパンはそれ以上に酷い目に合わされないための懸命な選択をしたのだった。

ジェニー・リンド
ヨハンナ・マリア・リンド
スウェーデンの歴史的オペラ歌手 
(1820年10月6日 ストックホルム−1887年11月 2日イギリス、ヘレフォードシャーのウィンズポイント)

作曲家アドルフ・フレドリック・リンドブラッドの弟子であったリンドは彼を養父とみなしていた。彼が熱心に求愛するのを知り、彼女は彼から逃亡した。
彼女は10歳でストックホルム王立歌劇場で400回もの公演を行った。既に彼女の疲れた声は鈍くなっていた。1841年、彼女はポーリヌ・ガルシアの姉でマリア・マリブランの弟である声帯生理学の専門家であるマヌエル・ガルシア・ジュニアに相談した。そして、3ヵ月間の絶対的な沈黙を命じられたことがあった。
静養した後、彼女はスウェーデンとベルリンでコンサートツアー再開した。
作曲家ジャコモ・マイアベーアはリンドに注目し1844年に彼女をベルリンに連れて行き、シュレジアでのオペラ「アインフェルドラガー」でヴィエルカの役を歌わせました(1845年1月5日)。彼女はまた、ベリーニのオペラ「ノルマ」と「夢遊病の女」の主役の座を勝ち取ったリンドはプリマドンナとして知られるようになった。彼女はフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディとの仲は友達だったのか、不幸な不倫の恋愛関係だったのではと推測されている。
1848年以降はロンドンでフレデリック・ショパンと親交を深めた。
彼女はショパンの助言に従いオペラの舞台から29歳で引退した。しかし、有名人の彼女は歌から完全に去ることは出来なかった。
1850年には米国でツアーを行った。彼女がピアニスト兼指揮者のオットー・ゴルトシュミット(1829-1907)とボストンで結婚した。
リンドはフレデリック・ショパンが亡くなる前に姉ルドヴィカがポーランドからパリへ来るための旅費を支援した。
マヌエルガルシアジュニア

マヌエル・ビセンテ・パトリシオ・ロドリゲス・シッチズ
(1805年3月17日 マドリッド−1906年7月1日ロンドン)バリトン歌手

彼の父マヌエルガルシアは彼を歌手にするために育てました。
しかし、彼は1829年に歌の教師になりました。彼は父親から教えられた声の機能を研究し、喉頭鏡を発明しました。
彼は1847年にパリ音楽院の教授を務め翌年、ロンドンの王立音楽院で1895年まで教鞭をとるために辞任した。生徒の中には、妻のユージニーメイヤー、ジェニーリンド、クリスティンニルソンがいました。その他マチルデ・マルケシとジュリアス・シュトックハウゼンもいました。
ガルシアは家族で全員が音楽家でした。二人の妹がいました、メゾソプラノの マリア・マリブランとポーリーヌ・ガルシア・ヴィアルド。
マリア・マリブラン
マリア・フェリシア・ガルシア 
1808年3月24日 パリ✳︎1836年9月23日 マンチェスター・イギリス)
✳︎コントラルトとソプラノ歌手
19世紀で最も有名なオペラ歌手の1人。
マリブランは嵐のような性格と劇的な強さで知られていた。
28歳でイギリスのマンチェスターで亡くなり伝説の歌姫と呼ばれている。
✳︎コントラルト声域が最も低い女性の声のタイプである古典的な女性の歌声。
コントラルトの声域はかなりまれです。メゾソプラノに似ており、カウンターテナーとほぼ同じ。
マリアはロッシーニの作品を歌った。
『タンクレーディ』『オテッロ』(デズデモーナ役と主役)その他、マイアベーアの『エジプトの十字軍』
ベッリーニ『ノルマ』
『夢遊病の女』『カプレーティとモンテッキ』(ロメオ役)
ベッリーニ『カプレーティとモンテッキ』ツィンガレッリ 『ジュリエッタとロメオ 』とヴァッカイ 『ジュリエッタとロメオ 』
ベッリーニは『清教徒』を歌曲に編曲しマリアに歌わせる予定だったがそれは叶わなかった。彼女はオペラ史上最初の歌姫として伝説となっている。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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