フレデリック・ショパン、ピアニストとしてのショパンのプライドとは…ピアニストへの禁句を言わなかったショパンが好きになった伯爵夫人とは…

ショパン肖像画からとサルトリス夫人肖像画から♬イメージ♬
ショパンはロンドンで晩餐会の招待を受けた貴族の夫人邸宅の出来事をワルシャワの家族へ繊細に書き続けた。
様々な貴族の令嬢や夫人と交流したショパンだが、ショパンが駆け出しの頃のように
若いというだけで恋愛の対象に見られるようなことはなかった。ましてや貴族と下僕では
結婚の対象外のショパンだった。
ショパンは自分の人生が早く終わって
亡き父ニコラスのところへ行ったら楽になるかもしれないと、ロンドンに来ていたフォンタナに告白していた。
しかし、貴族と付き合って生き延びるしかないフレデリックであるから、ワルシャワの家族へは自分に親切な人は他にもいることを書いた。
「私がとても好きになってしまった人がいます。それは、
サルトリス夫人(ファニー・ケンブル)です。
彼女は私のことを随分前から知っています。
ロンドンの社交界を一手に引き受ける彼女の晩餐会では、彼女は私が演奏する気がしない時は、彼女は私の気持ちを察して、
決して私に『演奏をしてください』とは
仰らない方です。
彼女は歌もとても上手です。
その上、サルトリス夫人は一流の頭脳を持っていらっしゃるのです。
彼女には二人の子供がいて、まるで
天使のように美しいのです。
彼女自身も昔は可愛かったのですが、今はもう…頭だけがカメオのブローチように残っているだけです。私は彼女の側にいると、
とても居心地がいいのです。
彼女は完璧に自然体です。」
ショパンがこれほどサルトリス夫人を褒めるのは嘘やお世辞ではなかった。
ショパンは作曲家であり勿論ピアニストであるが、
「弾いてくださるかしら」「弾いてください」または、「ちょっと弾いてくれるかな〜」はたまた、その言葉の腹には(減るもんじゃないし〜)などとは言われたくないのだ。その言葉を聞いた時点でピアニストは腹が立つのだ。だからもうその人とは終わりなのだ…。
つまりは、それがショパンのプライドなのだ。
それが日々努力する演奏する者にしかわからない自尊心というものなのだ、
ピアニストは自動演奏マシーンではないのだ。あなたのひと声で出したり引っ込めたりすることが音楽ではないのだ。
せめて
「聴かせてくださいますか」「あなたの演奏を聴きたいです」くらいにしてほしいものだ。
ショパンの気持ちに寄り添うサルトリス夫人は決してショパンを奴隷扱いしなかった。
ショパンは話しを続けた…
「サルトリス夫人は私の小さなプライドもすべて知っていてくださるのです。」
小さなプライドと語るショパンだが、実は
小さなプライドも積もり積もると大きなプライドなのだ。そして…
「例えば、私たちの共通の友人であるデッサウアーやリストの欠点などです。」
ショパンもサルトリス夫人はデッサウアーやリストの過ちを知っている仲間といったところなのだ。
サルトリス夫人と共通の知人デッサウアーやリストの態度や口調をショパンは真似してサルトリス夫人を笑わせて二人でクスクス笑い楽しく時間を過ごしたのである。
「私はよく彼女とおしゃべりをしたのですが、まるで彼女はあなたのことをよく知っているかのように話されました。」
サルトリス夫人はショパンの姉ルドヴィカに会ったこともないのだが、誰から聞いたのか、よく知っているような話しをしたというのだ。
「彼女はあなたのことを知っている人ですが、実際には部屋しか知りません。
「私たちはジェチーンのトゥーンズの家に住んでいたことがありました。彼女もまた、
そこに来たことがあり楽しい時間を過ごすことができたそうです。
私たちは、1835年にジェチーンのトゥーンズの邸宅で過ごしました。彼女も滞在したことがありますが部屋のことしかしりません。
彼女が言うには、彼らは私たちのことを
非常に頻繁に話されていたそうです。」
ショパンは1835年の夏に母ユスティナと父ニコラスと共にチェコのポーランド国境近くの保養地カールスパートへ行ったことがあった。そこで3か月間過ごした後、両親をジェチーンまで見送った帰りに、ショパンはホーエンシュタイン伯爵の邸宅に滞在したことがあったのだ。ホーエンシュタイン伯爵はショパンのことを気に入っていたのだ。
ショパンを招いたことをよく話題にして
サルトリス夫人に話したという。
ショパンはその頃のことは両親に会った最後であり両親に甘えることが出来た最後の
思い出でもあり、その帰り道にドレスデンのマリア・ヴォジンスキ家を訪ねた忘れてしまいたい苦い思い出があるのだ。
実はホーエンシュタイン伯爵の邸宅にショパンが滞在したのはホーエンシュタイン伯爵の妹にショパンはピアノを教えていたのだった。つまり、ショパンはホーエンシュタイン伯爵の妹のご令嬢を教えた後にヴォジンスキ家のマリアを教えに行っていたのだ。
パトロンを探して貴族との結婚を少なからずも期待したことがあったショパンだがショパンは下僕という現実に苦しめられた。
サルトリス夫人はショパンの過去を知っている。ショパンは気取らないサルトリス夫人が好きだった、彼女と過ごす時間はショパンの過去も今も傷ついた心が癒されるようだった…。
フリードリッヒ・フランツ・ジョセフ・マイケル・グラフ・フォン・トゥーンとホーエンシュタイン
(1810年5月8日 ジェチーン−1881年9月24日ジェチーン)はオーストリアの外交官

フリードリヒは、チロルとボヘミアで裕福だったトゥーンとホーエンシュタインの高貴な貴族の家柄から始まりました。
彼の両親はフランツ・アントン・フォン・トゥーン伯爵とホーエンシュタイン(1786–1873)、妻はテレジア・マリア、ブリュール伯爵夫人(1784–1844)でした。
彼の母親はアロイス・フリードリッヒ・フォン・ブリュールの娘で、ハインリッヒ・フォン・ブリュールの孫娘でした。
フリードリヒの妹ジョセフィン・フォン・トゥーンとホーエンシュタイン(1815年10月3日プラハ−1895年3月13日プラハ)は
ピアニストでした。
1834年に彼女はフレデリックショパンの教え子になった。
1835年9月フレデリック・ショパンは
ホーエンシュタイン伯爵の邸宅に滞在したことあった。ここでショパンはワルツの変イ長調作品34の1を書き始め9月15日に書き上げた。この曲はトゥン=ホーヘンシュタイン嬢に献呈された。
アロイス・ジョセフ・デッサウアー
(アロン・バルク・デッサウアー1763年2月21日、ゴクスハイム-1850年4月11日、アシャッフェンブルク)
有名なドイツの 宮廷 ユダヤ人(宮廷ユダヤ人)
ユダヤ人社会の指導者バルーク・デッサウアー(†1772年3月17日ゴッチハイム/バーデン)とゴッチハイム/バーデンのナタン・セリグマンの娘ミンデル・セリグマン(†1795年2月20日ゴッチハイム/バーデン)の息子アロン・バルークが生まれる。1792年にケーニヒスホーフェン・オプ・デア・タウバー(バーデン)に来て、そこでケーニヒスホーフェンの市民・商人ヨセフ・ダビッド(†1824)とヘンリエッテ・ゾントハイムの娘ベーラシナ(ベルシナ、ベイレ)・ダビッド(* 1775年6月25日 ケーニヒスホーフェン † 1819年6月11日 アシャッペンブルク)と結婚した。祖父はケーニヒスホーフェンの市民で「金持ち」と呼ばれたヤコブ・ダビッド(1783)である。
1798年、商人で元シュルマンズ宮廷銀行家、軍事ラジエーターであった彼は、家族とともにアシャッフェンブルクにやってきた。デッサウアーは、王子であるカール・テオドール・フォン・ダルベルクと最高の関係にあったと言われているが、社会的な地位の向上は1805年の洗礼以降に始まった。 1805年8月23日、アロンバルーフとその妻ベフラシーナとその子供3人はアシャフェンブルクの聖アガタ教区教会で洗礼を受けることになった。洗礼名を採用する場合、頭文字を残すことが多いので、アロンは「アロイス」、妻は「アンナ・エリザベス」、子どもたちは「ヨーゼフ」「ゲオルグ」「カール・フリードリヒ」と名づけられた。第4子のフランツ・ヨハンは、生まれた時にカトリックの洗礼を受けた。
1805年9月5日、15グルデンと34クロイツェルの市民税を支払い、同日、アシャッフェンブルクの町民として認められた。デッサウアーは、紙商、石版、高級インクの製造など、さまざまな産業で活躍するようになり、1810年にはアシャッフェンブルクの色紙工場を設立した。町民の尊敬を集め、1805年には射撃協会の名誉会員に、1826年には奉行となった。









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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです