フレデリック・ショパン、ショパンのSOSとは…ショパン、スターリング嬢の秘密を知る…不気味な屋敷から脱走か…

ショパンの横顔の肖像画からと、
13番目の末娘だったスターリング嬢と
スターリングの父親の肖像画から
🎶イメージ🎶
ショパンはカルダーハウスを発って10日後マンチェスターの郊外にあるクラムサルハウスのシュヴァーベの邸宅で開催された
紳士たちの演奏会に出演した。8月28日
ロンドンで活躍していた歌手アルボーニなどの複数の歌手が出演した。
ショパンの出演料は80ポンド(現在の凡そ400万)だった。しかしながら、ショパンはロンドンのアパルトマンとパリのアパルトマンの家賃や、貴族の招待とはいえ、贈り物や交通費や宿泊費などに消えるのだ…。
そこでは、産業革命で金を儲けた作曲家ノムコムが来ていた。彼はマンチェスターの郊外の工場主であり金持ちなのだと、ショパングシマーワに語った。
その他の招待客には国会議員のマッキントッシュ氏、その娘のリッチ夫人の姿もあった。
彼女とショパンはスターリングとアースキンとの共通の知り合いだった。
この演奏会の後、ショパンはまた、エジンバラまで8時間の汽車の旅で戻って、
そこから、更にショパンは、グラスゴーに近いジョンストン城のヒューストン夫人を訪問した。夫人はトーフィッチェン卿の義理の姉であった。それが済むとショパンはスターリングのキール•ハウスに戻ることになっていた。そして、グラスゴーで9月27日商人会館でショパンは演奏し、90ポンド(450万)をショパンは受け取った。
10月1日にもエジンバラで演奏する予定だと
ワルシャワの家族に話していたショパンだったが、この日のショパンは演奏会のことは何も語っていないため不明である。
恐らく、ショパンは演奏したのかもしれはいが、心を石にしなくてはならなかったのであろう。ショパンは自分の曲ではなく、スコットランド民謡を弾き、ブロードウッドを宣伝しなくてはならなかったに他ならない。
ショパンはマンチェスターでの演奏会のことはパリに居るグシマーワに報告した。
「あなたに前回手紙を書いてから、私はマンチェスターに行きました。ここで私は、
3回演奏しました。(2回とアンコール)。」
ショパンは、何を演奏したかは語らない。
恐らく…歌手の伴奏か、それともスコットランド民謡をアンコールで演奏しのかもしれない。
「素晴らしい邸宅と1,200人の聴衆。私は郊外に住んでいます。
金持ちはみんな郊外に家を建てているのです。街中では煙が多すぎるからです。
私は親しい友人のシュワーベの家に滞在しています。」
シュワーベ夫人はショパンのパトロンでもある銀行家のレオと取り引きがある仲間だった。
「…あなたはレオの店で見かけたことがあると思います。」グシマーワもレオのところで、シュワーベ夫人と会ったことがあった。
「彼は一流のメーカーで、最も高い建物を所有しています。
マンチェスターの煙突は5,000ドル(現在の凡そ1610万円)もしたそうです。彼はコブデンの友人です。
そして彼自身も偉大な自由商人です。彼はユダヤ人ですが、レオのようにプロテスタントに改宗しました。彼の奥さんは私に特別に親切にしてくださいます。」
ショパンは収入を得て親切なシュワーべ夫妻の邸宅で幸せなひとときなはずであった。
「今週、ジェニー・リンドが現地に到着するので、私はもっと長く滞在する予定です。
リンドは私の大親友ですから。
また、あなたが会ったことがある、親愛なるリッチ夫人は、私のパリのアパルトマンで
スターリング嬢と会ったことがあります。
 マンチェスターにいるレオの弟にもシュワーベ夫妻の邸宅で会いました。
シュワーベ夫妻はルアーブルのアルブレヒトと知り合いなので、すぐにでも
パリのアルブレヒトにメッセージを送り、私にお金を払うよう頼んだ。
オルレアン広場の家賃と税金。. . .」
ヒューストン夫人はスターリング嬢の姉であり、ショパンはスターリング嬢の
姉妹や、いとこや親戚を順番に訪問したのであった。
「お城はとても立派で、豪華に手入れがされています。」と、グシマーワに我慢を重ねて重ねて書くショパンだ…ショパンはなかなか真意を書けない…。
ショパンは予定通り、次はマリー夫人を訪ね、そこでは一週間過ごした。しかし、やはりショパンは作曲はしなかったし、出来なかった。
しかしながら、ショパンはエジンバラで演奏する予定はあり、スコットランドの滞在は
10月までになりそうだとグシマーワに報告した。
ショパンは冷静に更に、続きを書いた。
 それは、パリで流行っていたホメオパシー薬のことなのか…
ショパンもロンドンに来る前に一時は常用していた…。
この薬は19世紀にヨーロッパで流行りアメリカで衰退し現在は無い。
実際には何も効能がなかった薬だが、当時の人々は信じていたのだった。その流行で
金儲けをした人の中に、ショパンのワルシャワ時代からの友人のリシンスキーがエジンバラに居たのだ。
「…エジンバラのホメオパシー医であるポーランド人のリシンスキーは金持ちで、
結婚していて、幸せに暮らしている。
彼は私の手紙をどこに送ればいいか知っているはずだ。
 この手紙は昨日書き始めたものですが、今、書き終えようとしています。」
ショパンのグシマーワヘの書簡はポーランド人の医師リシンスキーがショパンの代行して
いた。グシマーワヘはショパンの書簡は
リシンスキーを通して、グシマーワが受け取る先のどこかは謎である住所に郵送されるというわけだ。
ショパンはそろそろグシマーワへの書簡を終えなくてはならない時間だ…。
「天気は変わり、外は嵐です。」
我慢我慢と書いていたショパンだが、ここからショパン節が始まった…
「私は気分が優れず憂鬱です。
そして、人々は私を過剰なまでに気にかけて
経済的に窮乏させるのです。
だから、私は息もできないし、仕事もできない。
人々に囲まれているのに孤独、孤独、孤独を感じる
 [7本の線が黒く塗りつぶされている]
私の嘆きであなたを疲れさせて何の益があるでしょうか。
あなたは自分の問題で首が回らない。
だから、私は私の手紙であなたを楽しませようとするべきだ。」
ショパンは、ヒューストン夫人の邸宅ジョンストン城の何階に居たのか…窓から嵐の原野を眺めて憂鬱な気分になっていたのか。貴族たちはショパンのためにと口先では
親切にし、演奏会を開いてくれるのだが、
そこから得る収入らしき収入は結果的にはショパンには無いに等しいのだ。それどころか赤字になるショパン…。シュワーベ夫妻の演奏会に出演しても、シュワーベ夫人は、ショパンの出演料金から、ショパンのパリの放置状態のアパルトマンの家賃代を差し引いた何%しか支払わなかったのだ。
つまり、シュワーベ夫妻はパリのショパンの友人で外交官のアルレヒトから、
『あなたのところに、ショパン君が滞在していますね。パリのショパン君の滞納している
アパルトマンの家賃を支払うようにショパン君に伝えてください』
シュワーベ夫妻はショパンにはそれを告げたが、ショパンは、確かにシュワーベ夫妻に出演料金からパリのアパルトマンの家賃を支払ったのだ。
しかし、シュワーベ夫妻はアルブレヒト に送金したが、全額ではなかった…アルブレヒトからショパンに督促状が来たのだ。だからショパンはアルブレヒト に再度、パリのオルレアンの家賃を払うようにシュワーベ夫妻に強く申し出なくてはならなかった。
ショパンはだからなのだ、気分が悪いし、
心は嵐が吹き荒れるのだ。
親切な人々『ショパンさま、また、エジンバラで演奏なさってくださいませ。
とても皆様が喜ぶと思いますわ』シュワーベ夫人やスターリング嬢姉妹は微笑みながら
毎日のようにショパンの世話をせっせとして
言うのだ。ショパンには、その笑顔と声がたまらなく冷淡に思えるのだ…。
なぜなら、ショパンにとっては一文にもならず、儲かるのはシュワーベ夫妻たちやスターリング姉妹達や、ホメオパシーのリシンスキーや、産業革命で儲けた人々や慈善事業という名目で金儲けをする人々くらいだからなのだ…。
ホメオパシーで儲けたリシンスキーもかつては貧乏だった、ショパンは困っていたリシンスキーに親切にしてホメオパシーの話しとアドバイスをした、そのショパンの知恵と資金提供でリシンスキーは上手く商売をしエジンバラで裕福に暮らしているのだ。ショパンは心底、友人や困っている人々に親切にし、ショパンの才能の知恵とお金を提供してきた。
ショパンは決して恩を売る人ではなかった、
しかし、ショパンも人間なのだ、辛くなる原因なのだ。
リシンスキーは今では成功者で自分だけの手柄のような顔をしていた。ショパンにはそれがたまらなく許し難いのだ…。
ショパンの情報やお金を使い上手くやった人々はショパンより世の中で成功者と見なされている…一方、人々に献身的に生きてきたショパンは気がつくといつも貧乏だった…だから、ショパンは真っ暗な気分になるのだ…。
いつも人並み以上に努力してきたショパン、だからこそ、報われず孤独に打ちひしがれてしまうショパン…。(生きている成功者には決して解らない気持ちなのだ)とショパンは書いたのか…(推測)…しかし、そこは7本の線で真っ黒に塗り潰されて読めなくなっていた…ショパンが塗り潰したのか、…それとも…誰かが…なぜ、不明だ。
そして、ショパンは、スターリング嬢姉妹のことをグシマーワに続けて暴露した…「…もし私が陽気な気分なら、このスコットランド人女性の一人を描写するだろう。
メアリー・スチュアート(内緒の話だが、13番目のいとこである彼女の夫は、その名前が
奥さんとは別人だと、真面目にそう言ってましたよ!)彼らは皆、ここでは男も女もいとこで、名家で名声のある家柄に属している。
大陸の誰も聞いたことがないような名前。そのため会話は家系図にそって行われます。
福音書 このような人がこんな人を産み、その人がまた別の人を産み、その人がまた別の人を産む。イエス・キリストに至るまで、2ページにわたって続くのです。…」
要は、スターリング嬢はスコットランドの女王の家系の家柄だと自慢するが、
スターリング嬢自体はどういう素性かは怪しいものだとショパンは言うのだ。ショパンはキアーハウスに伝わる家系図のようなものか、代々の肖像画でも見たのか何かを知ったようだ。
スターリングの両親は早くに亡くなっており、スターリングは13人目の末娘だったことになっているのだが、貴族の家柄はいとこが何人もウヨウヨいて、家系図を遡っても誰が誰やら、どこでどうなったかも、果ては、
キリスト誕生まで遡って調べてもわかりませんよ、とショパンはスターリング嬢の
嘘を見破ったと、グシマーワに話すことで、自分の生まれた過去や自分の今の真っ暗な気分から抜け出したかったのだ。
ショパンに親切だったのは古い貴族の高齢者ばかりだった。若者は貴族の嗜みである狩猟へ行ってしまい、演奏会には興味がない。
それがまた、ショパンには溜息になる原因でもあった。
雨続きで城から出られず、ショパンは
逃げ出したい気持ちを堪えて書いていた。
「…ここ数日、雨と嵐に見舞われている。どうなることでしょう。
ストラチャー(マレー婦人の家)へ行くことになっている。船でロッホ湖を渡らなければならない。ロング湖は最も美しい湖の一つです。そして西海岸に沿って行く。
スコットランドはここから4時間しかかかりません。」
旅から旅へ、そして汽車で往復16時間の旅をしたばかりのショパンには4時間は近いのだ。だんだんと麻痺しているショパンなのか…。
 ショパンは、グシマーワに書き溜めた書簡を送ろうとしていた、そして、
何日も何時もの間、
ペンを握りしめペンを走らせて書いたショパンの指はペンだこと火傷のようになっていた…
「…ペンは指を火傷させるし、髪の毛は落ちる。
書きたいことが書けず、走り書きをしてしまうのです…無駄なことをしている…」
グシマーワに「こんなくだらないことを書いていることを許してください。」
と、最後に詫びる聖人ショパンだった。
ショパンの悲痛な声は誰に届くのか、ショパン、グシマーワに謝らなくてもいいですよ、と神がもし存在し見ていたのなら言ったでしょうに。ショパンの自慢の長い金髪の髪は
白くなってきていた、そして、抜け落ちる髪の毛…そして涙…。ショパンの新しい曲は生まれない、毎日ショパンは書簡を書いて誰かに助けて欲しいとSOSを送ろうとしていた。
「ソランジュとロゼール嬢にも
神経が過敏でなくなったら書こうと思っている。愛をこめて 死ぬまで君を愛してる。ショパン」
追伸として、グシマーワに返事を求め、
「神があなたとともにいますように 。エティエンヌ夫人によろしく伝えてください。」
アパルトマンのお金は支払ったはずだと管理人にショパンは伝えてくださいと、締めくくりグシマーワへの書簡を終えた。
その後日か、ショパンは書き忘れていたとして、グシマーワに再度、報告しなくてはならないことがあった。それは、
「言い忘れていましたが、前回の手紙の後、私は奇妙な事故に遭いました。
幸いにも実害はなかったのですが、私は命が犠牲になっていたかもしれません。
私は海岸にいる何人かの隣人に会いに行くために馬車を走らせていました。
私が乗っていた馬車は(四輪馬車で御者台は外についている)クーペで、とてもハンサムな若い英国産サラブレッドの二頭立てでした。
一頭の馬が後ずさりし始め、足をとられ
もう一頭の馬を引き連れ、駈け出してしまった。そのとき公園の坂道を下っているとき、手綱が切れて、御者は投げ出された(ひどい打撲傷)。車体は木にぶつかり、粉々になった。もし、車体が長く止まっていなかったら、断崖絶壁を乗り越えていたかもしれません。車体は木にぶつかり止まりました。馬の一頭が自由になり、狂ったように走り出した。もう一頭は馬車と一緒に倒れた。
枝によって窓が割れた。幸いにも私は、足に打撲を負った程度で、怪我はありませんでした。
というのも、このときの衝撃が大きかったため、下男が飛び出して、
馬車が壊れ、馬が傷ついただけでした。
遠くから見ていた人たちは、二人の男が殺されたと叫びました。
一人が投げ出され、もう一人が横たわっているのを見て、殺されたと騒いでいました。
馬が動く前に、私は地面から這い出すことができました。
しかし、その様子を見た人も、私たちも、誰一人として無傷ではいられなかった。
私たち自身は、なぜ私たちが粉々にならずにすんだのか、理解することができませんでした。ベルリンの大使(エマニュエル)のことを思い出した。ピレネー山脈での事故でも、あんなに倒されたんですよ。
正直なところ、最後の時間が迫っているのを目の当たりにして、私は平静を装っていました。
足や手が折れたらと思うと、ぞっとする。廃人になるのを私の仕上げにされるところだった。」
これは、…海岸にいる何人かの隣人に会いに行くところだった…ショパン、隣人とは誰なのだ、そして、海岸とは、ショパンは脱走したが失敗に終わったのであろうか…命は運良く助かったショパンだったが怖かったとグシマーワに報告したのだった…。
1850年アリ•シェフェールによるシュヴァーベ夫人の肖像画
1818年1月31日ブレーメン-1896年5月20日ナポリ
慈善家、学校創設者
シュワーベは1818年にブレーメンで生まれ、20歳のときにいとこのサリス・シュワーベ(サロモンベンエリアス生まれ)と結婚した。
シュワーベはマンチェスターで成功した綿花印刷業者だった。
ウェストファリアのユダヤ人起源で、
ユニテリアン教会に改宗した。
彼女は1837年10月14日の結婚の時までは、名前はジュリーと名乗っていた。
彼女の夫は結婚の2年前に英国市民になった。彼は社会主義を嫌いながらも彼は労働者と緊密に協力し金儲けをした。
しかし、この見解は、困窮している人々を助ける慈善事業のはずが、チャリティーので得た利益はジュリーが着服していた。
シュワーベはかつてラッダイトの暴動で被害を受けた確立された工場を購入し、この綿花印刷工場から非常に金持ちになり、
従業員のための学校と図書館を設立するための資金も提供したことになっている。
シュワベは、マンチェスター近くのクランプサルハウス、ビューマリス近くのレジャーレジデンスグリンガース、パリの家で行われたサロンで知られていた。彼らは1848年にクランプサルハウスに引っ越しました。これは、1851年の調査でシュヴァーベはその7人の子供とゲストの世話をしており、敷地、厩舎、16人の使用人を雇い、ジョージ王朝様式の邸宅だった。使用人には、看護師が含まれていた。かつて彼女は女家庭教師としてセレスティン・ドゥデを雇っていた。
 ドゥデはパリで少女達を監禁餓死させたとし殺人罪で起訴された。シュワーベはドゥデの裁判にドゥデの性格の証人として現れたが、ドゥデは少女達の死を引き起こした罪で有罪となった。
シュワーベは小説家チャールズ・ディケンズに介入させようとしたが失敗した。
シュワーベはリチャード・コブデンと彼の妻と一緒にヨーロッパをツアーし、自由貿易のキャンペーンを行った。
シュワーベ夫妻らはフレデリック・ショパンがマンチェスターの診療所のための資金を調達するためにショパンを招いた。
ショパンはクランプサルハウスに滞在し、そこに歌手のジェニーリンドも来ていた。
ジェニーリンドはジュゼッペガリバルディのために1,000ポンドを調達した。
シュワーベは1860年にガリバルディに救援物資を送ったばかりで、翌年、彼女はイタリアの女性慈善協会を結成した。リンドはコンサートで食糧と教育に資金を提供するために集めた3,000ポンドの一部だった。
シュワーベはナポリに小学校を設立。5年間運営されたが学校は閉鎖された。
1873年、シュワーベはナポリに別の教育機関を設立することを決定し、その目的のためにコッレジオ・メディコから資金を調達した。
ナポリにあるシュワベの学校は、1876年までにイタリアとナポリの政治家からも資金を貰いイギリスのマスコミでも報道されたことがあった。
1890年代に彼女はアイデアをイギリスに持ち帰り、そこでフロベル教育研究所への資金提供を支援した。彼女のライフスタイルをより質素にすることで、2,000ポンドを調達したと言われています。彼女はクロード・モンテ・フィオーレとサーウィリアム・マザーを説得して支援し、レオポルドとマリアデロスチャイルドは彼らの支援を与えた。このプロジェクトは、皇后フレデリックの支援も受けた。
1894年の会議はピカデリーのロスチャイルドの家で行われた。政府教育局長官のジョージ・ウィリアム・ケケウィッチは、モンテフィオーレを会計として、マザーを議長として支援した。
シュワーベは、1896年にナポリで亡くなった。
クラムサルハウス(シュワーベ夫妻の邸宅)
ジョンストン城
スコットランドのレンフルーシャーにあるジョンストンの町に現存する廃墟のカントリーハウス。
ジョンストン城(スコットランド:ジョンストン城)は、スコットランドのレンフルーシャーにあるジョンストンの町にある建造物であり、かつての邸宅です。
1773年にイースター・コクレーンの領地を取得したミリケンのフーストン家のものであった。元の構造は、1771年と1812年にジョージ・ヒューストンによって大幅に拡大され、彼は建築家ジェームズ・ギレスピー・グラハムによって、正面左手にタレットを備えた城郭様式に改築させたと考えられる。
最も特徴的なのは、1階の樽型アーチ形状の部屋である。外壁はバトルメントの装飾に加え、ロープ状のストリングコースがあった。城と政策は特に絵になると考えられていたが、ジョンストンの町の継続的な発展により、その規模は縮小し、20世紀初頭には地所はほとんど消滅していた。1950年に家の大部分が取り壊され、残りの敷地の大部分は1956年に住宅用として地元当局に購入された。
現在残っているのは、中央の四角い塔と、それより古い時代のカラス型バルティザン部分のみである。2001年に購入されるまで、塔は荒廃しており、現在は個人の邸宅となっている。保護カテゴリーBに指定されている。
ジョンストン城は、
1848年に作曲家ショパンが訪問したことにある。当時5代目ジョンストン領主だったルドヴィック(1780-1862)の妻アン・ヒューストンに招かれ、スコットランド旅行の一環として訪れた。アンの妹ジェーン・ウィルヘルミナ・スターリングは作曲家の弟子で長年の友人で、このスコットランドでのツアーを手配していた。ショパンはこの城に滞在中にパリに居る友人ヴォイチェフ・グルマーワへ馬車の事故に遭い死にそうなったことを書簡で伝えた。


マチルダ・シャーロット・フーストン(旧姓ジェシー; 1811年8月16日– 1892年6月)は、英国の旅行作家、小説家、伝記作家、
トーフィチェン卿の義理の妹フーストン夫人
ヘンリー・レイバーンによる二人の肖像画、父親のジョン・スターリングと13番目の子供のジェーン・スターリング。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

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