フレデリック・ショパン、得体の知れない金の影に追いかけ回されるショパン、カルダーハウスを発ち、次なる地のマンチェスターへ汽車の旅へ…ノムコム氏との再会は貧民ショパンを救うのか…

数数の栄誉な賞を胸に付ける作曲家ノムコムと金銭苦から這い上がれないフレデリック・ショパン…♬イメージ♬
卵が先か鶏が先か…全く根源の正体がわからぬサンド一家そして、自分の家族達…
ぐるぐる回るお金と得体の知れない何かの影にショパンは怯えていた。
ショパンはイギリスに来てから曲を全く書いていない…。
作曲家は旅先で何かしらインスピレーションを受け新しい曲が生まれというものだ。
ショパンもウィーンの教会で霊感を受けパリでスケルツォ一番を書き上げるなど、作品を生む苦しみを味わいながらも作曲家として大志を抱いていた頃もあった。しかし、ショパンの一回目のイギリス旅行は何も生まれなかった。二回目のこの長期イギリス旅行もショパンにとっては作曲に集中できるような環境ではなかった…それだけであろうか…。
ショパンはサンド、姉ルドヴィカに言いたいことをはっきりとは言えない。だから、いつも説明が長く長くなるフレデリック。
ショパンは本当はひとことではっきりと家族に言いたいのだ、、、
『私はたとえ遠く離れたスコットランドに居ても貴方のことが頭から離れません。
貴方の考えによる私の身の振り方の意向はわかりました、しかし、私は、この遠い地の果てで一生を終えるわけにはまいりません。
ここでは自分を誇りに思えるような音楽会はありません。それでも、私はまだ書かねばならない曲がたくさんあるのです。
だから、生きていかなくてはならないのです。』ショパン、アメリカ亡命を半ば諦めたが、ショパンは全てを諦めたわけではないのだ…だから、悔しさが込み上げるのだ…。
ショパンは、サンドだけではなく、ワルシャワの家族のこともこれからどう思っていいのかはわからなかった。
一番慕っていたはずのルドヴィカまでもグレーゾーンに思えてしまうフレデリックなのだ。夫のバルチンスキはグレーゾーンそのものだからなのだ。
そして、ショパンのピアノ協奏曲3番がなぜ生まれないのか、亡き父ニコラスも「お前程の才能なら3番が既に完成しているはずだが…」
と、最後まで期待していた父ニコラス。
道徳の父ニコラスに教育されたフレデリックにはサンド夫人の汚れたビジネスのことは到底賛同出来なかった。
親子関係が込み入ったサンド一家と付き合うことに疲れ果てたショパン、そしてソランジュとショパンの関係…しかし、
結局一番の原因はサンドの汚れたビジネスにショパンは賛同出来なかったことは大きな一つの要因だったのだ。
ルドヴィカに自分の境遇と照らし合わせ書くことで心の整理をし、ショパンはスコットランドを後にしたかった…
「…スコットランドに話を戻します。私は、8月28日にマンチェスターへ行く予定です。
そこで、ロンドンから来たイタリア人歌手アルボー二などが出演するコンサートに私も出演します。
60ドルの出演料でお引き受けし、1週間後にスコットランドを出発します。
汽車で8時間、200マイル強の距離を移動する予定です。」
ショパンはスコットランドから321km離れた
マンチェスターへ向かう予定なのだ。
この頃は産業革命の最中で1830年リバプール・アンド・マンチェスター鉄道の開業により、蒸気機関車と鉄道が既に完成していた。1839年頃は更に鉄道網の整備が急速に進み始めていた。1850年までには6,000マイルの鉄道が開通することになるのだ。ショパンが旅した1848年は丁度その過渡期なのだ。
ショパンはそれまで馬車での強行軍な旅を長年強いられ来たが、蒸気機関車が開通したことにより短時間に長距離移動出が可能になったことで、今まで以上に彼方此方へスターリング嬢に引きずり回さられる羽目になった。産業革命を機に人々の生活は便利になっていく一方で、人はより人より金を稼ぎより欲張りな人生を生きようとする始まりでもあった。ショパンは移動時間は馬車より短くなったはずだが、移動回数が増え、結局移動時間は長い。長いが、作曲する暇はない。そして、現実には超長距離移動なため、ショパンは体が付いてはいかない…だから、ショパンは体がどこまで持つか…ショパンはワルシャワの家族に不安を漏らしていた。
そんなことはスターリング嬢はお構いなしなのであった。
ショパンは8時間もの汽車の移動中、車窓からどんな風景を眺めていたのであろうか…。
寝ていたのであろうか、、、
鉄道は、1830年代にはすでにアメリカ・フランス・ドイツ、ロシアで開通していた。
ショパンはサンドには内緒でドイツとフランスで既に汽車に乗ったことがあった。
「マンチェスターでは、裕福な製造業を営む親切な友人たちが私を待っています。」
ショパンはスターリング嬢の紹介で産業革命でお金を儲けた金持ち製造業の経営者が集まる音楽会で演奏する予定なのだ、友人とは
ショパンの友人ではなくトーフィチェン卿からの紹介なのか…
そして、ショパンが唯一楽しみなのは…
「ノイコムが滞在しています。(彼はハイドンの一番弟子です。」
作曲家ノムコムと会えることだ。イギリスに来てからというものショパンは作曲家に会った試しがなかったのだ、芸術談議が出来る相手がいなかったのだ。
ノムコムはモーツァルトの普及に努めていた。
ショパンもモーツァルトを勉強してきた。
忘れもしない、ショパンの「ラ・チ・ダレム変奏曲(モーツァルトのドン・ジョヴァンニの『お手をどうぞ』による変奏曲」
変ロ長調 作品2は1827年のショパン17歳の時に学生時代に作曲した作品だった。そして1829年8月11日のウィーン旅行の際にショパンの独奏で初演したことがあり、また、1831年にはシューマンがこの曲を酷評し、それを読んだショパンは笑い死にしそうになったほど嫌味な評論だった。
それを作曲家仲間ヒラーがショパンを助けたことでシューマンがショパンに対する態度と評論を改めてきたことがある、つまり、曰く付きの曲なのだ。ショパンはモーツァルトの楽譜をワルシャワ時代から大事にしていた。それを姉ルドヴィカにパリに送ってもらっていた程、ショパンはモーツァルトに熱心であった。1844年に父ニコラスを亡くし、ショパンはより人の死についてより深く考えるようになり、1846年にはワルシャワの姉ルドヴィカにモーツァルトのレクイエムの小型総譜をパリへ送ってほしいと頼んだショパンだった…ショパンはレクイエムが書きたいのだ…。
そう、だからノムコムとマンチェスターで会えるショパンはモーツァルト談議または、
既にレクイエムを書いたノムコムと作曲談議を期待していたはずだ。
ノムコムはハイドンの弟子だった、
実はノムコムの母親はハイドンの愛人だったのだ。そのあたりのことははっきりとは不明だが、ノムコムは特別にハイドンに可愛がられていたことは事実のようだ。
「彼は(ノムコム)はブラジル皇帝の宮廷指揮者でした。
彼の名前はご存知だと思いますが。
また、リッチ夫人もいます。彼女の父親のマッキントッシュ氏は、国会議員を務めた尊敬すべき人物です。
マッキントッシュ氏は講演や執筆活動をしています。リッチ夫人はスターリング嬢とアースキン夫人、そして私の共通の友人なのです。」
そして、ショパンの次の訪問先は…
「コンサートが終わったら、私はまた
グラスゴー地区でトーフィチェン卿の義理の妹[フーストン夫人の住むジョンストン城
を訪問します。
それからマリー夫人のところへ行き、スターリング嬢の居るキール・ハウスに戻る予定です。そこで、数日中にエジンバラで演奏するようにとの申し出を受けております。」
ショパン…目が回るスケジュールなのだが、
ここまで来て断るわけにはいかないのだ。
「エジンバラで10月1日に弾きます。もし、それがお金になるなら、そして私に体力があるなら、私はこの先どうしたらいいのか分からないのです。しかし、冬がどうなるかわからないので、これは必ずやります。」
冬がどうなるかわからないショパン、それは、ノアンに行っていた頃も、毎年毎年ショパンの行き先が変わろうとも同じことなのだ。定職があるわけでないショパンはお金に
なる仕事を受け冬は演奏会が無い、つまりは、収入がゼロ…どころか、赤字で借金地獄を味わってきたショパンは切実なのだ、
お金は貰えるときに貰い冬の生活のために蓄えなくてはならない、だから、このきつい短期集中ハードスケジュールを断れないのだ、とショパンはワルシャワの家族に訴えかけた。
「パリのアパルトマンに私の部屋があるのですが、どうなっているかわかりません…」
2月革命後、パリは治安が不安定だから、
空き家はどうなったかもわからない、パリに
戻れるかも不安なショパン…。
「多くの人が、私をこのまま冬の間もロンドンに居たらどうかと勧めます。」
トーフィチェン卿はショパンを気に入っている、スターリング嬢も危ないパリには戻る気がない、だからスコットランドが無理ならば、ショパンもロンドンに居たらどうかと
勧めるのだ。
「私は、何をすればいいのかわからない。10月まで様子を見ようと思います。
私は、あと100ギニーがポケットに入れば悪くはないのです。」
あと、100ギニー(500万円)を稼ぐのは難しいことをワルシャワの家族に訴えているショパン、あと、100ギニー送ってください、ということなのだ。パリに来たばかりの頃もショパンはポケットにお金がない、貧民ショパンと嘆いていたが、ロンドンでも金と体力、どうしたらいいのか、ショパンは大勢の貴族に会うものの、実のところは、貴族も無駄な出費を嫌いショパンには特に支援はないのである。
だから、ショパンはワルシャワの家族を頼るしか手立てがないのだ。
「ロンドンがこんなに黒くなく、そして
人々がそれほど重く退屈でなく、煤の臭いさえなければ。私は英語に魅力を感じたでしょう。しかし、ここの英語はとても違いました。私はフランス人には愛着があります、まるで、自分の民族のように感じます」
ショパンはスコットランド英語が聞くに耐えられなかったのだ。
たとえば「そうだがな〜、かなわんわー、あかんわ〜」など、田舎のイントネーションや
音の響きが耐えられないショパンだった。
ショパンは様々な地を旅して来たが、フランスはパリの言葉が一番美しいと感じていた。フランスもパリ以外の地方はなまっているのだ。どこへ行っても田舎は方言やなまりが当然あるのだ。ショパンはスコットランドでも親切な罪のない人々を見たが、それは、
そこに生きるその人達なのだ…、許せないのはその言葉ではなく、スコットランドに追いやられた自分自身!そう!ショパンはなぜ、
自分はここにいるのだ!と自分自身が許せなくなるのだ!だから、なまった英語など
学ぶ気分には到底ならないのだ、それが、
音楽家ショパン、作曲家ショパン、演奏家ショパン、芸術家ショパンの美学だからなのだ。
ショパンは感受性が強いがため、なまった英語の中に身を置かねばならない自分が我慢ならないのだ。
「イギリス貴族の彼らが芸術を愛する理由は、それが贅沢だからです。」
イギリス貴族達は芸術ではなく単に贅沢が好きなだけであるとショパンは語る。
「彼らは親切です。」上げたり下げたり…
「しかし、彼らはあまりに変わり者なので、もしここに私が留まったら......というのは私は想像できるのです。
私は、石化したり、機械になったりする可能性があるということです。
もし、私がもっと
若かったならば、私は自分を機械にしてしまうかもしれません。
私はあちらこちらでたくさんコンサートを開くだろう、そして、無味乾燥なゴミのような儲かれば何でもいいという無味乾燥なゴミのような演奏をして金儲けに走ることでしょう!
でも、私が今さら、そのように機械には
なることは無理なのです…」
ショパンは苦悩していた…金か芸術か…
ショパンにはイギリスのあちらこちらで
金儲けに走り回り人々をあっと言わせる芸人芸をしている大多数のゴミ演奏会をガラクタとショパンは呼んでいた。自分は、それと同じように金のために機械にはなれないのだとワルシャワの家族に悲痛な叫びを書いたフレデリック。
「今日は天気が良いので、頭の中がカラッとしています。
埃まみれのアイデアのことは置いておきます。
公園は素晴らしい光に包まれました。
それは朝です…。
私はすべての悩みを忘れ、家にいるあなたたちと一緒にいる。
 冬のことを考えるのは、やむを得ないときだけにしておこう。
 そして今、私はあなたに私の愛を送ります。」
ショパン、冬への不安にスコットランドで押しつぶされそうな気持ちを家族にぶつけて、
一晩経った朝、時間切れなのだ、さあ、スコットランドを出発しなくてはならないのだ。
スケジュールは泣いている暇もないのだ、
次はマンチェスターだ。心を石には出来ないショパン…どうなることやら…。


ジギスムント・フォン・ノイコム
彼の代表作品は1813年ルイ16世を偲んでのレクイエム。
1778年7月10日 ザルツブルク生まれ の彼は、1858年4月3日パリで亡くなりました。 
彼は、オーストリアの 作曲家でした。
彼はザルツブルグ大聖堂のオルガニストであるフランツ・ザバー・ヴァイサウアーと音楽を学び始め、その後(1797年から1804年まで) ジョセフ・ハイドンの兄弟であるミヒャエル・ハイドンの弟子になりました。
 1797年にウィーンで音楽を教え、モーツァルトの 息子フランツ・クサーバー・ヴォルフガングを弟子にしました。
彼の活動は、サンクトペテルブルク(1804-1808)、ストックホルム、パリのドイツ劇場の劇場監督に就任しました。そこで彼は、チェルビーニ、ゴセック、グレトリー、モンシニーと出会いました。
1816年から彼はリオデジャネイロに5年間滞在し、モーツァルトの曲を指揮し、自作のレクイエムを完成させるためにリベラを作曲しました。そして、
彼はジョン6世の息子の宮廷音楽教師になりました。ブラジル滞在中、彼はブラジルの民謡を主題にして90から100の作品を作曲しました。彼は1821年にパリに行き、

✳︎1848年フレデリック・ショパンにヨーロッパ旅行中のノムコムはマンチェスターで会い芸術談議をした。

彼は、1858年に亡くなるまで作曲した。
彼の妹のエリザベス・ノイコム(1789-1816)は、ウィーンのソプラノ歌手だった。
彼は1,300から2,000の作品を作曲しました。
彼はウィーンで多くの弟子がいた。
ノイコムはモーツァルトを信仰していた。
彼はスコットランド民謡をモチーフにした曲を作った。しかし、今日、彼の曲はほとんど忘れ去られていると言われている。
彼は1858年4月3日にパリで80歳で亡くなった。

マチルダ・シャーロット・フーストン(旧姓ジェシー; 1811年8月16日– 1892年6月)は、英国の旅行作家、小説家、伝記作家、
トーフィチェン卿の義理の妹フーストン夫人
マッキントッシュ氏
チャールズ・フレイザー・マッキントッシュ彼は1828年にインバネス近郊のドックガロックで生まれた。
14歳で法務の仕事を志した。インバネスのジョンマッケイで7年間働いた。
1849年に、彼はエジンバラ大学で法学を続け25歳の時、彼はインバネスで独自のビジネスを始めました。彼はシェリフ書記官の助手となり、1853年に検察官になった。
彼は政治に興味を持ち、1857年にインバネスの市議会議員に選出された。
彼は仲間のドナルド・デイヴィッドソン、ヒュー・ローズ、ジョージ・グラント・マッケイと共に、鉄道の到来がインバネスの拡大、成長、繁栄につなと確信した。彼らは、駅とチャーチストリートの間の古い建物の解体を始め、ユニオンストリートの建設に着手し1864年に完成させた。フレイザーマッキントッシュはまた、ドラモンド・エステートとバルリファリー地域の土地を購入して開発した。1874年、彼はインバネスの国会議員に選出された。彼は1892年に政治を引退し、残りの人生を歴史と文学の研究に没頭した。
彼は1901年にボーンマスで亡くなり、1920年に妻が亡くなった後、ハイランドの歴史と文化に関する彼の膨大な本のコレクションをインバネス公立図書館に寄贈した。
フレデリック・ショパンはマッキントッシュ氏と、その娘であるリッチ夫人にマンチェスターで1848年にスターリング嬢の紹介で会った。

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