フレデリック・ショパン、スターリング城に集う美女たちとは…そしてそこでショパンはなぜ演奏しなくてはならなかったのか…グシマーワはただひとりの最後の親友なのか…。

🎶美女ノートン夫人の肖像画より🎶
「さまざまな有名な美女も今ここにいます。(ノートン夫人は数日前にここを去りました。
公爵や領主もここにいます。」
ショパンが語る有名美女のノートン夫人とは旧姓キャロライン・エリザベス・サラ・シェリダン、劇作家で政治家のリチャード・ブリンズリー・シェリダンの孫娘で彼女はロンドンで生まれた、彼女は1827年にジョージ・チャップル・ノートンとわすが19歳で結婚させられたが、1836年夫の暴力に耐えかね夫から離れて暮らしていた。彼女の夫のジョージ・ノートンは妻キャロラインの親友であるメルボルン卿をジョージの妻キャロラインへの姦淫の罪でメルボルン卿を訴えた。裁判では証人の多くが偽​​証罪を犯したことが判明し、メルボルン卿は無罪となり無罪判決であった。しかし、これは、ジョージがキャロラインと離婚できなかったことを意味した、ジョージと離婚したかった法的に離婚出来ないキャロラインは夫から逃げるしかなかった。彼女には、息子が3人居たが、ジョージから逃げたキャロラインは息子達に面会すら許されなくなった。
この事件は有名になり、その後、彼女は女性を擁護する活動家となった、
ショパンがノートン夫人に会った1848年は、
既にノートン夫人はジョージ・ノートンと別居していた。(彼女は1857年「結婚原因法」1870年「既婚女性財産法」が成立するまでジョージと離婚出来なかった、後に、1877年ウィリアム・スターリング・マクスウェル卿と再婚することになる)
ショパンはグシマーワにスターリング城に
集まる貴族は、このような女性活動家が多くいると伝えた。
…「集まった人々は例年より数が多かったのです。」…そして、
「今年はいつものように、女王はスコットランドにいて、昨日は汽車でこの道を通り過ぎました。
女王は決められた時間までにロンドンにお帰りになる必要があるのです。
霧がひどくて、女王はヨットでが来たのですが、ヨットで帰れなかったのです。
そして船員といつもの行列が彼女を待っていたにもかかわらず、女王は
アバディーン地域から最も簡単な方法で夜行列車に乗りました。
人々が言うには、
アルバート王子はとても喜んでいたに違いないそうです。なぜなら、彼はいつも船酔いしていますが、
女王は、真の海の支配者のように、それを恐れていません。」
ヴィクトリア女王はアルバート王子が船に弱いことを理由として、港で女王と王子を直立不動で待つ船員達の列を無視して汽車でさっさとロンドンへ帰ってしまったというのだ。
「私はすぐにポーランド語を忘れてしまうのです。私はイギリス人のようにフランス語を話します。そして私はスコッツマンのように、古いものに似た英語を話すことを学ぶでしょう。
そのうち、同時に5つの言語を話していた老ジャウォレクのように私はなるのだよ。」
スコッツマンとは、1817年からエディンバラで発行されている新聞のことで、ショパンは新聞記事を読んで英語を勉強していたのだ。だから、話し言葉ではなく古い文法のような英語であるのだとグシマーワに冗談交じりに話した。
「もし、私が嘆き悲しんでいないとしたら、それは、
あなたは、私のすべてを知っている唯一の人だからです。
私のことを 一度話し始めたら終わりがないことをあなたは分かっています。
同じことの繰り返しになる。同じことを言うのは間違っています。未来はもっと悪い。
自分が弱くなったように感じる。」
グシマーワに弱音を吐くフレデリックだ…。
自分の理解者はあなただけだと、グシマーワに告白し、たとえひとりでも自分の本当のことを知っていてくれる人がいるなら、
自分は救われるのだ、それは、ただひとり、
あなたグシマーワです。とフレデリックは、
ポーランドの頃からの親友グシマーワ、
『あなただけは私を裏切ったりしないでくれ』
という意味を込めて書いたのだ。
フレデリックはグシマーワを信じたかったし、信じていた。
そして、…
「私は、何も作曲する気がないわけではなく、作曲することができないからです。
毎週、別の枝を飛び越えなければならないので、物質的な障害になるのです。
でも、それ以外に私に何ができるのだ?
これで私は冬に備えたお金ができるのです。」
イギリスに来て6か月目にしてショパンは初めて自身の作曲ができない理由の心の内をグシマーワに打ち明けた…。
お金のために、駆けずり回る不本意な演奏会?いや晩餐会か…怪しい慈善事業の集いの箸休めのような役目でしかないショパン…それでもお金のためにショパンが誰かも知らない人々のためにショパンは弾かされる、ショパンにはそれは不本意な演奏でしかない…。
ショパンは落ち着いて作曲をしたいが、
その時間が全くないのだ、ショパンは作曲したい心を押し殺し心を石にしなくてはならなかった。
「私は、招待状がたくさん来ていますが、
例えばアーガイル公爵夫人とか、ベルハーベン夫人の邸宅に本当は行きたいのですが、
季節が進みすぎると体調を崩してしまうから行けないのです。」
行きたいとショパンが思える招待はまだ
先で冬になってしまうのだ。それは、
ショパンには過酷な条件であるのだ。
「このごろは、
例えば、私は午前中ずっと何もする気になれません。
2時(昼食)を過ぎると、着替えをした後は、すべてが
夕食の時間まで息が上がってしまうのです。夕食が終わると、私は
男たちと一緒に食卓を囲み、男たちの会話を見たり、話を聞いたりする。
彼らは酒を飲んでいる。
彼らは、私とは全く違うことを考えているのです。
彼らはフランス語で丁寧な説明を私にしてくれたにもかかわらず話は死ぬほど退屈なのです。
というのも、彼らは、私のことを、
"間"と呼んでいるからです。」
フレデリックはグシマーワに悲痛に訴える…
晩餐会とは聞こえがいいが、ショパンにとってこれは最悪なのだ。なんと、ショパンは
「間」と呼ばれていたのだ…。
つまりは、彼らにとってはショパンが誰であろか関係ないのだ、退屈になってきた
夜中0時頃になってから、『余興係の
音楽をスタートさせてくれ!』と、
合図が出ると、ショパンは『はい、かしこまりました』と
疲れ果てた体と精神を押し殺してピアノを弾かねばならないのだ……。
「彼らは、そのころには、私の演奏を聞きたいと思うようになって来るのだ。
それが終わると、善良なダニエルが私を担いで2階の寝室(ご存知の通り、イギリスでは寝室は通常2階にあります。)私の服を脱ぐのを手伝ってくれて、ベッドに寝かせてくれて、
蝋燭を灯して、ダニエルは私を置いて行く。
私は朝まで思うがままににあえぎ、夢を見る。」
倒れ込むショパンを夜中過ぎに、ショパンの使用人ダニエルがショパンを抱き抱えて
寝室まで連れて行くが、ショパンは演奏で疲れ切った体と神経で直ぐには寝付けない…。
「そして、また最初からです。
ある程度慣れてきたと思ったら、また同じことを繰り返し何処かのある場所に移らなくてはならない。
スコットランドの女性(スターリング姉妹)は私に安らぎを与えません。
スターリング嬢たちは私を迎えに来て馬車で
彼女の親戚やあちらこちらへ私を連れ回すのです。
しかし、あなたは私がいつも差し迫った個人的な招待を強く求められていることに気がついてください。
彼らは私を優しさから窒息させ、私は礼儀正しさから、それを拒否できないのです。」
スコットランドでこれを繰り返す毎日のショパン…フレデリックは、何のためにイギリスに来たのか、何のための芸術か、貴族の彼らはショパンを宴会の余興係かもっと酷いことに箸休めの『間』としか見ていないのだ、
ショパンはその彼らを相手に何を演奏したかは一切グシマーワに語らなかった。ショパンは一種の娯楽の芸としか見られていない屈辱に耐えて弾き倒れ込む日々…。
ショパンは自分が目指していた芸術は何処へ消えてしまったのか、自問自答した。
作曲したいが出来ない苦しみあえぐ日々はまだ続くのか。
この頃、スコットランドの貴族社会は古い風習が残っていた、フレデリックはお金のためにどこまでも耐えなくてはならないのか…。



2021年 にイングリッシュ・ヘリテッジによってウェストミンスター市メイフェア、ロンドン、W1J5JFのチェスターフィールドストリート3番地に記念プレートが示された。
キャロライン・ノートンは女性の法的権利の擁護者として活動した、
彼女の功績は法の執行、文学、慈善活動と改革。彼女は1845年夫から離れ1877年までの間30年以上住んでいた
キャロライン・エリザベス・サラ・ノートン、レディ・スターリング・マクスウェル(旧姓 シェリダン; 1808年3月22日-1877年6月15日)英国の社会改革者、作家

彼女は1836年に夫を捨て、親友で当時ホイッグ党の首相だったメルボルン卿を刑事訴訟 (不倫) で訴えました。陪審員は訴えを棄却したが、彼女は離婚に失敗し、3人の息子との面会を拒否された。彼女の選挙運動は、1839年の 「乳児監護法」 、1857年の 「結婚原因法」 、1870年の 「既婚女性財産法」 の成立につながりました。彼女は、彼女を不正の有名な犠牲者として選んだダニエル・マクリーゼによる貴族院の正義のフレスコ画のモデルとなった。

ジョージノートンとの結婚
キャロライン・エリザベス・サラ・シェリダンは、劇作家で政治家のリチャード・ブリンズリー・シェリダンの孫娘であるロンドンで生まれました。彼女は1827年にジョージチャップルノートンと結婚したのは19歳でした。
それは壊滅的な不釣り合いでした。キャロラインはジョージがアルコール中毒で暴力的なことにすぐに気づきました。
その原因は貧乏でした。
彼らの経済的圧力は、フレッチャー(1829–59)、ブリンスリー(1831–77)、ウィリアム(1833–42)の3人の息子の誕生とともに高まり、キャロラインは彼女の執筆で家族を支援せざるを得ませんでした。
この頃、彼女は内務大臣、後に首相のメルボルン卿と関係を持っていたと言われていた。
キャロラインと夫ジョージの関係は悪化、
彼女は1835年に家出した。ジョージは息子
への面会を拒否したときに彼女は一度は戻った。1836年3月、さらに夫婦仲が悪化して
ジョージは彼女を家から締め出し、キャロラインに息子たちを会わせないようにした。
監護権のための戦いの後。
ジョージは妻と姦淫の罪でメルボルンを訴えたが、証人の多くが偽​​証罪を犯したことが判明しメルボルンは無罪判決だった。無罪判決は、ジョージがキャロラインと離婚ジョージノートンとの結婚
キャロライン・エリザベス・サラ・シェリダンは、劇作家で政治家のリチャード・ブリンズリー・シェリダンの孫娘であるロンドンで生まれました。彼女は1827年にジョージチャップルノートンと結婚したのは19歳でした。
それは壊滅的な不釣り合いでした。キャロラインはまた、ジョージが過度に飲酒し、彼らの論争で身体的暴力に訴えたことにすぐに気づきました。その多くの原因はお金の不足でした。彼らの経済的圧力は、フレッチャー(1829–59)、ブリンスリー(1831–77)、ウィリアム(1833–42)の3人の息子の誕生とともに高まり、キャロラインは彼女の執筆で家族を支援することを余儀なくされました。
この頃、彼女は内務大臣、後に首相のメルボルン卿と関係を持っていた可能性が高い。その間、キャロラインとジョージの関係は悪化し続け、彼女は1835年に夫婦の家を出ましたが、ジョージが男の子へのアクセスを拒否したときにすぐに戻りました。1836年3月、さらに別の喧嘩の後、ジョージは彼女を家から締め出し、子供たちをサリーの彼の家族の家に連れて行き、キャロラインに彼らを見させることを拒否した。
監護権のための戦い
ジョージは妻と姦淫の罪でメルボルンを訴えようとしましたが、証人が偽​​証罪を犯したことが判明したため、メルボルンは無罪となった。この無罪判決は、ジョージがキャロラインと離婚できないことを意味した。
しかし、ジョージはキャロラインが3人の息子に会うのを阻止した。父親に子供を自動的に監護するという法律を変える戦いをキャロラインは始めた。彼女は1837年と1838年に2つのパンフレットを発行し、弁護士と国会議員のトーマス・タルフォードに議会を通じて監護権法案を後援するよう要請した。
これが最初に失敗した後、彼女は活動を続け、幼児保護法案(1839年)で大法官に宛てた明白な手紙を作成した。その年、ついに親権法が可決され、姦通の罪で有罪とされなかった法的に別居または離婚した母親は、7歳未満の子供の監護権を与えられ、その後は定期的に子供に面会できるようになった。
キャロラインは1841年にようやく子供たちの共同監護権を獲得しましたが、ウィリアムは翌年亡くなった。
彼女は、ダニエル・マクリース(1806年1月25日アイルランド コーク− 1870年4月25日歴史画家、肖像画家)のフレスコ画のモデ​​ルとなった。
彼女の配偶者は、
ジョージチャップルノートン(1827年以降)
ウィリアムスターリング (1877年以降)
ジョージ・チャップル・ノートン(1800年8月31日-1875年2月24日)1826年から1830年までギルフォードの国会議員。
彼はウィンチェスターカレッジで教育を受けた、彼は1875年2月24日にウォーンアーシュで亡くなった。
ウィリアム・スターリング・マクスウェル卿、第9バロネットMP KT、ポロック FRSE DCL LLD(1818年3月8日– 1878年1月15日)は、スコットランドの歴史作家、美術史家、政治家でした。
第2代メルバーン子爵ウィリアム・ラム
1779年3月15日 - 1848年11月24日)は、イギリスの政治家、貴族、弁護士。
1836年にメルボルン卿はジョージ・ノートンから姦淫の罪で訴えられた。メルボルンは、裁判で無罪になった後、キャロライン・ノートンから距離を置いた。
ハミルトン・キャンベル(1790年から1873年頃)は、1815年にロバートモンゴメリーハミルトン卿、第8代ベルハーヴェン卿、およびステントンと結婚し、ベルハーヴェン夫人とステントンになった。
ジョセフによる彼女の夫の大理石の胸像は博物館のコレクションにある。
サミュエル・ジョセフ(1791-1850)は、1826年にロイヤルスコティッシュアカデミーの創設メンバーの1人。
1827年から1844年まで展示された。彼はロンドンとエジンバラで活動働した。
彼は肖像画の胸像を専門とした、ウェストミンスター寺院のウィリアムウィルバーフォースのものなどの葬式の記念碑を製作した。しかし、彼は生涯貧乏で無一文で亡くなった。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです