フレデリック・ショパン、ショパンの犠牲的精神とは…ロンドンでもポーランドのために弾くフレデリック…、そして、サンドを呪って楽になりたい…ショパンの魂は何処へ行く、悟りの境地とは…

ジョルジュ・サンド、1864年ナダールによる肖像写真とフレデリック・ショパン、1847年頃ナダール肖像画写真から、サンドの将来を見つめるショパン、🎶イメージ🎶
ショパンはロンドンのギルドホールで行われるポーランド人難民の集まる舞踏会の開幕式で演奏するために予定通り、10月31日にスコットランドを離れロンドンのセント・ジェームズ邸宅に滞在していた。ギルドホールで11月16日に演奏を終えたショパンは、翌日から
体調を壊してジェームス邸宅でただただ休養する毎日を過ごしていた。
それでも、パリのグシマーワへの報告は怠らないショパンだった。「私はロンドンに着いた日から18日間、病気でした。……
医者は毎日来てくれます。
(ホメオパシーのマラン医師は、スコットランド人女性には有名な方です。(彼の妻はゲインズボロー夫人の姪なのです) 彼は私を
昨日、ポーランドのコンサートと舞踏会で演奏できるよう、体調を整えてくれました。」
ショパンはホメオパシーという当時は信仰されていたが、実は何も効能のない薬の処方により演奏を乗り切れたとグシマーワに伝えた。しかし、まるでそれは、おまじないのようで、次の日には魔法が解けたかのようになってしまった。
「ギルドホールでの演奏はとても素晴らしかったです。しかし、演奏が終わるとすぐに、私は帰宅後、一晩中眠れませんでした。……」素の体調にリバウンドしたショパンは苦しんでいた…。
「本当に濃い霧は
まだ始まっていないのですが、朝はもう窓を開けなくてはならないほどです。
を開けて、新鮮な空気を吸い込む。私は今、セントジェームズ邸宅4番地にいます。
2週間半ほど前から体調を崩している。
定期的にスジェフスキに会っています」
ショパンはロンドンに居るポーランド人スジェフスキに度々会い自分の気持ちを落ち着かせようとしていた。
「ブロードウッドとアースキン夫人(彼女はスターリング嬢と一緒に来ている)」
彼らもスコットランドからロンドンにショパンを追いかけて来ているのだ。
「…私が最もよく目にするのは、アレクサンダー王子です。そして、チャルトルスキ夫妻です。マルチェリナ王女はとても親切で、私の家に来てくれました。私がまるで入院しているかのように毎日です。」
 ショパンはグシマーワに書簡はポーランド人のスジェフスキ宛てに送るように頼んだ。

「今すぐにはパリに戻れないが、いつどうやって戻ろうかと考えている。
この邸宅は立派ですが、このままでいるわけにはまいりません。
暖炉やリネンなどの設備も整っており、週4ギニーもしない。
例えば健康な独身者で国会議員には適しているだろう。私はスチュアート卿とはかなり親しい間柄なのです。
親切な彼は昨日、私が演奏した後で、私の様子を見に来てくれました。今、行ってしまいました。」スチュアート卿はショパンより7歳年上の45歳、彼は政治家だ。
ショパンの様子を見舞いに来ていたが、
帰ったところだとグシマーワに報告したショパン…。お金が続かないショパンは、
そろそろジェームズ邸宅を出なくならない…。スチュアート卿にポーランドには帰りたくても帰れない、アメリカへも渡れない、かといって、パルマやルッカへは行きたくない、スコットランドは懲り懲りのショパン…だから残るは、「パリに戻りたい」と、
話しを付けたのかフレデリック…。
「さて、私は
この近くにある、もっと広い部屋の宿に移ると思います。呼吸がしやすくなるはずです。」早くジェームズ邸宅を出なくてはならない…。
突然のように、グシマーワにパリに自分が戻るまでにあれこれ準備をしてほしいと頼んだフレデリック…。
「いずれにせよ大通りに適当なものがあるかどうか、ル・デュ・ラ・ペ通りかロワイヤル通りから1階でお願いします。
南向きで、マドレーヌ通りやマチュラン通りの近くです。ただし
ゴドー通りとか、暗い細い路地とかは避けてください。それと私の使用人のための小部屋です。
 広場に何かあるかもしれません。
[オルレアン]の9番地は優秀なエティエンヌ夫人が管理している。
例えば、フランクのアパートは、私のアパートの2階を貸すことになっていた。
私はこの冬は今の邸宅にいられなくなる
でも、同じ階段にいる私の使用人のためにせめて部屋だけでも空いてたら泊まれるようになるかもしれないです。
私はまだエティエンヌ夫人を雇い続けなければなりません、しかし現在のダニエルを解雇するのは忍びないのです。
ダニエルは、私がイギリスに戻りたかったりした場合のために、私の要求を熟知しているのです。」ショパンはロンドンを後にし、早くパリに戻りたかったが、まだロンドンにも未練があったショパンだった。
 
「なぜこんなことであなたを困らせているのか、私にはわからない。
何事にも気を配りながら、自分のことは自分で考えないといけないと思うのです。ですから、どうかあなたは私を助けてください、そして私に手紙を書き、あなたの考えを教えてください。
私は今まで誰も呪ったことはないのですが、すべてが余りにも耐え難いことばかりです。
ルクレツィア(ジョルジュ・サンド)を呪うことができれば、もっと私は楽になれるのだが。」グシマーワが根回し提案したショパンの行き先を却下し、パリに戻れる準備を頼むことを詫びるフレデリック…。
誰も呪ったことはない、とは、弱っているフレデリックは降参しているだけで、やはり、本当は呪っているから、サンドを呪って
楽になりたいと真意を溢す…。
イギリスで酷い目に遭わされているのも、
サンドが自分を中傷したことが原因だとショパンはサンドを呪わずにはいられないのだ、
でも、今は呪う元気もないのかフレデリック…。
「しかし、彼らもまた
ノアンで苦しんでいるのだから、なおさらだ。サンドは怒りのままに老いていく。」
ショパンはサンド達も結局は、人に悪さをすれば自分に跳ね返り今はノアンで苦しんでいるはずだから、怒りで生きて来た人は怒ったまま老いるであろう、はては歳とった怒り顔が顔に刻まれている老人になるであろうと
ショパンはサンドの未来を決定したのだ。
 「私はソランジュのことを残念に思って止みません。
世の中はなんという状態なのだろう アラゴは鷲の騎士団を身にまといフランス代表 ! ! ここでは、ルイ・ブランのことなど誰も眼中にない。そしてコシディエールは、国民衛兵の何人かが[イギリス訪問先で]ホテル・ド・ラ・サブロニエールから放り出された。
レストランに入ってきたとき 彼らは叫んだ。「お前はフランス人じゃない。」と言って、拳で彼を追い返した」…割愛
(コシディエールマーク・カシディエール1808年5月18日 ジュネーブ−1861年1月27日パリ、フランスの政治家でフランス共和国運動の重要な人物)フランス情勢はロンドンにも飛火していたことをショパンはグシマーワに付け加えた。
「ロゼールにお礼を言いたいくのですが、体調が悪くて書けません。
この間、ロゼールが私に姉からの書簡を送ってくれたのですが探す気力もない」
ルドヴィカからの書簡が紛失して探すことすらできないというショパン…。
二階に使用人の部屋を作ってもらえないでしょうか。直ぐに暖炉に火をつけなくてはなりません。しかし、私が帰ってきて何になるのだ!?どうして神は私をすぐ殺さずにいるのだ!…
スコットランドの女たち(スターリング姉妹)が私の神経を逆なでしている。
また 敬虔なプロテスタントのアースキン夫人が、おそらく、私をプロテスタントにしたいのでしょう。彼女は私に聖書を持ってくる。
私の魂について語り、読むべき詩篇に印をつける。彼女は敬虔で
しかし、彼女は私の魂のことをとても心配しているのです。
彼女は来世は現世より優れていると言っている。
私は聖書を引用して答えます。私は彼女にこう説明します。私は全部知っているし、私は理解している。
 すべて私の愛です。荒々しく書いたせっかちな私を許してください。
しかし、私は本当に病気なのです。
死ぬまであなたのものです。ショパン」
ショパンは聖書を全部暗記していたのだ。
全部知っていると言う恐るべしフレデリック…
フレデリック・ショパン38歳と8ヵ月にして、
人を呪うことは無意味だと悟り、
聖書を読破し全部わかっているのだ!と言い放った。
ショパンは、ロンドンに健康ならばまだ居たかった、1日2回のレッスンでは、この先3、4ヶ月しか食べて行けないショパンだった。
パリに新しいアパルトマンを用意して、
今までのアパルトマンも解約しないでほしいとグシマーワに追伸を書いた。
パリに戻る決心を固めたショパンだった…。
ダドリー・クーツ・スチュアート卿
(1803年1月11日、ロンドン– 1854年11月17日、ストックホルム)
英国の政治家。彼はジョン・スチュアートの末息子であり、ビュートの第一侯爵であり、彼の次の妻であるフランシス・クーツは銀行家のトーマス・クーツの娘でした。
✳︎フレデリック・ショパンは1848年ギルドホールでの演奏後、体調を壊してセント・ジェームス邸宅で2週間以上寝ていたが、
国家議員でもなければ長くは滞在できないと
語る。お金がなかったショパンは長く滞在するために、スチュアート卿と密接にしていると語っていた。スチュアート卿はショパンを見舞った。

ギルドホール1805年頃
✳︎1848年11月10日フレデリック・ショパンは、ポーランド人難民のための舞踏会で舞踏会が始まる前にポーランド人のために記念演奏をしました。ショパンは「とても素晴らしかった」と語った。しかし、セント・ジェームス邸宅に戻ったショパンは一晩眠れなかった。そして、ショパンはセント・ジェームス邸宅で2週間半寝ていた。


ギルドホール1863年ビクトリア女王の集会



ギルドホール現在の大ホール
着工1411年
完全1440年
ギルドホール現在
ギルドホールは、イギリスのロンドン市のムーアゲート地区にある市庁舎です。
数百年前から現在も市庁舎として使われいます。「ギルドホール」は、建物全体と中世の大広間と大ホールのことです。
ロンドン地下鉄の最寄り駅は、バンク駅、セント・ポール駅、ムーアゲート駅です。第一級建造物に指定されている。




1848年11月16日フレデリック・ショパンがギルドホールの演奏のために滞在した。セントジェームズ邸宅
セントジェームズ邸宅は、ロンドンのセントジェームズ地区にある。グリーンパーク付近にある。始まりは1694年頃、歴史家だったジョンストライプが建てました。
マルツェリーナ・ツァルトリスカ
マルツェリーナ・ツァルトリスカ王女、
ラジヴィウ家(1817年5月18日ポドウネ-1894年6月5日クラクフ)
ポーランドの著名な貴族、ピアニスト
彼女は5歳からウィーンに住み、ベートーベンの弟子カール・ツェルニーにピアノを学ぶ。1840年、彼女はアダム・チャルトリスキ王子の甥であるアレクサンダー・ロムアルド・チャルトリスキ王子と結婚した。
8年後、オーストリア当局によってウィーンから追放された後、パリに移り、フレデリック・ショパンからピアノのレッスンを受けた。
チャルトリスカはしばしばヨーロッパを旅し、慈善のためのコンサートを行い、時にはアンリ・ヴュータン、オーギュスト・フランショーム、ポーリーヌ・ヴィアルド、フェレンツ・リストなどと共演した。彼女はショパピアノ協奏曲とソナタ変ロ短調を演奏した。
✳︎彼女は1848年ロンドンのセントジェームズ邸宅で療養中のフレデリック・ショパンを毎日のように見舞いました。ショパンは
彼女は親切な方だとグシマーワに語った。


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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです