フレデリック・ショパン、身を寄せる場所がないショパン、ポーランドの歌さえもショパンの心にもはや聞こえてこない…スターリング嬢と結婚できない秘密とは…

ショパンの写真からとスターリング嬢肖像画から🎶イメージ🎶
スコットランドのハミルトン宮殿で2、3日過ごしたショパンだったがエジンバラに戻り、
その10日後のことだ…。
「…10月30日、あなたは(グシマーワ)
私がどんな人間か忘れたのですか?
あなたの書簡には、私が日に日に弱くなり、より強くなっていると書いてある。
退屈で、希望の影もなく、自分の家もなく、私が結婚するつもりだと思うのか?
あなたの親切な書簡を受け取った日、私は
万が一に備えて、自分の荷物の処分の指示リストのようなものを書きました。
万が一、どこかで寿命が尽きてしまったら…。
 スコットランドを放浪していたのですが、もうすでに
明日、ロンドンに戻ります。」
ショパンはグシマーワから何か指図があったのだ。結婚して身売りして、どこかの国の宮殿のお抱えの音楽家になるか、など、ショパンには到底受け入れ難い話だったと推測される。だから、グシマーワの書簡(現存せず)
に対して、あなたはお節介な人だが私がどんな人間か忘れたのか?とショパンは伝えた。
こんなやり取りができるほどショパンはグシマーワと親友なのだ。そして、ショパンは死のうと思っていた。だから、遺書を書き、晩餐会の暴露の書簡を書いたところだったのだ、そこへ、ちょうどグシマーワから危機一髪の助け舟の書簡が届いた。
グシマーワが自分を心配していることを感じたショパンは死なずに済んだ。そして、ショパンは絶望の闇からまた這い上がり再びグシマーワに返事を書いた。
「ダドリー・スチュアートから、6日に演奏してほしいという依頼が私にありました。
ポランド人のための慈善コンサートで、舞踏会が始まる前に行われるものです。」
ショパンはポーランド人のためなら這ってでも行くつもりになった。
「私はハミルトン宮殿(ここから60マイル)から戻ってきたところです。
ハミルトン公爵夫妻と数日過ごしたのです…」ハミルトン宮殿の晩餐会で散々な目に遭わされ後ショパンは体調を壊してレジェンスキ博士のところに5日間滞在していた。
「ホメオパシー治療をしているのです。お誘いは全てお断りしています。」
ショパンは何も効能のない当時流行のホメオパシー薬をまだ信じていた…。
そして、生き延びるためには、冬までにもっと稼がなくてはと気持ちが焦っていた。
これから、ショパンはまたハミルトン宮殿に戻ることになっていた。
その後は、そこからアラン島に行く予定だとグシマーワに伝えた。
「バーデン王女が結婚して、その王女の家に滞在することになりました。
その息子、ダグラス侯爵のことである。しかし、私はすでに何も知らない。
私がハミルトンに滞在している間、彼らには
多くの地元貴族や一族だけでなく、皇太子や勲四等瑞宝章を受章した人物もいました。
パルマ皇太子夫妻、ルッカ皇太子。妃殿下は
ボルドー公爵夫人の妹で、殿下はかなりの同性愛者の方です。お若いお2人は私をキングストンの家に招待してくれました。
ロンドンに戻ったら 彼らはイタリアを離れざるを得なくなったので、お二人はこれからイギリスで暮らすことになられます。」
 ショパンはルッカ殿下ご夫妻の招きは断れないのか…。
「これらのことはとても素晴らしいことですが、今の私には手に負えません。」断りたいショパン…
「ハミルトンから急いで離れたのは、またしても私が8時から10時半まで食卓を囲むと、あの時のように苦痛を伴います。
グートマンの店を覚えていますか?
私は午前中に朝食を取るが
自分の部屋へ、遅く帰ってきて、担ぎ上げられたり、下ろされたり。
階段が苦手な私には、とても無理な話でした。」
グシマーワと弟子のグートマンが経営しているパリの店で朝食を取ったことがあったが、
ショパンは自分のアパルトマンの階段をひとりでは登り降りできないため、長時間の退屈な朝食の後は更にたいへんなことななるのだ、グシマーワは覚えているから、
ルッカ殿下ご夫妻の招きも私が断りたいことはお分かりでしょう、とショパン。
階段は息が切れるショパンには毎回が登山のようなものなのだとグシマーワを説得する。
まさか、ルッカ殿下夫妻の招きはグシマーワの根回しかもしれないからだ。
しかも殿下は妻があろうともかなりの同性愛者なのだ、そのことをショパンはなぜか知っていた。ショパンにはパリのパトロンで、同性愛者のキュスティヌ侯爵が居たではないか。ショパンは同性愛者から好かれるタイプなのか、ショパンは結婚は無理ならば、
残された道は同性愛者のルッカ殿下の慰め者としてのお抱え音楽家ではどうかと、グシマーワは言ってきたのだ。ショパンは
だからグシマーワに「君は僕のことを忘れたのか、どこまで私を貶めたら気が済むのか…」と怒りさえ覚えていた。
ショパンは同性愛者のキュスティヌ侯爵は
いい人だったが彼もまたロシア寄りだったことが判明しショパンはキュスティヌ侯爵から距離を置くようになったことがあった。
ショパンは、これらの誘いしかない自分だが、まだ死ねないと思い直していた…。
ショパンはグシマーワに書いた遺書のことを、「…あまりに絶望的で、ひどかったので、送らないほうがよかったと思います。…」あれを最後にしようと心の底から
思ったが、確かに自分の身体は弱ったが、
まだ死ぬわけにはいかないショパン。
そして、
ショパンは11月16日以降の真冬になる前にはパリの状況がいくらか改善し、ロンドンの霧が酷くなってきたらパリに戻り旅に出たいと思っていた。
これ以上スコットランドに居てもショパンには何も得るものがない、、
スターリング姉妹には2週間ほど会っていないショパン…「今日、彼女達はここに来ます。彼らは私にもっと長く滞在することを望んでいます。」
それはショパンがスターリング姉妹にとって
金儲けの都合のよい相手だったからだけなのか、スターリング嬢はショパンを慕っているのは確かなのか…。
「…スコットランドの宮殿から宮殿の、あちらこちらで私は招待されています。
彼女たちは親切だけど、とても疲れます!!
神が彼らと共におられますように!」
ショパンは自分を疲れさせるスターリング姉妹を呪わずにスターリング姉妹の幸せをなぜ神に祈るのであろうか…。
「私は毎日彼女から手紙をもらうが、私は1通も返事をしない。私がどこへ行っても、二人はどこへでも私を追いかけてきます。もしかすると、それで私が結婚するという誤解を招いたのかもしれません。
しかし、結婚するからには、何らかの容姿に私が魅了されるものがあるはずです。
彼女は私に似すぎています。」
ショパンはスターリング嬢のことをグシマーワに話した。
スターリング嬢は子供の頃から容姿が可愛いと言われていた。大人になってからの姿は、
スターリング嬢に寄り添っている子供はスターリング嬢の子供らしいが、実子かは不明。
スターリング嬢は独身でスターリング嬢の姿は子供を産んだ女性には見えないほどすらりとしたお嬢様のようだ。
そして、スターリング嬢の顔は何故だかショパンに似てるとショパン自身は気がついていた。
だから「自分が自分にどうしてキスがてできますか?. . . 友情は友情、私はそうはっきり彼女に言ってきました。だから、彼女は、私に
それ以上のことを要求することはできないはずです。」スターリング嬢はショパンに言い寄ったことがあったのだ、スターリング嬢の顔はまるでショパンと双子のように似すぎていたのだ。ショパンは自分の顔を鏡で見るかのような女性にキスはできないと、グシマーワに話した。グシマーワは、ショパンにスターリング嬢と結婚してはどうかと書簡に書いて送ってきたからなのだ。
スターリング嬢はショパンより6歳年上だが、ショパンの生まれも謎めいているため、本当の年齢はショパンの年齢も謎なのだ。モーツァルトも実年齢でなかっかた…。
ショパンは、「あなたとは友人としてしか付き合えません。」そうスターリング嬢に結婚をはっきりと断ったショパンだったのだ。
まさか、本当に双子だったのかもしれないのか…スターリング嬢は気がついていなかったがショパンは誰から聞いたのか、それとも教会に行き記録を見てしまったのか…。
ショパンはやはり孤児だったのか、スターリング嬢とは生き別れた兄弟なのか、ショパンは自分の不幸な人生は宿命だから逃れられないと、いつも教会へ行き祈るしかなかった。
そして、ショパンは誰とも結婚を望まない人生を自分は選んだことをグシマーワに宣言した。「もし私が、私を愛してくれる人と恋に落ちることができたとしたら、
自分も愛されたいと思うようになる。それでも私は結婚しないでしょう。
私には食べるものもなく住むところもないからです。金持ちの女は金持ちの夫を探し、もし貧しい男を選ぶ女ならば弱々しい男ではなく若くて元気な男を選ぶであろう。
男は、ひとりなら苦労しないが、二人だと貧乏になる。
だから結婚は最大の不幸である。
私は施設で幽霊になり諦めるしかありません。しかし、妻を餓死させるわけにはいかないから結婚しないのです。」
これが、ショパンがコンスタンツァアをポーランドに残して旅してきて19年かけ身を持って得た結婚観だった。結婚という概念はこのどれにも該当しない自分は一生結婚はしませんと断言したショパンだった。
スターリング嬢とショパンがまさか本当に双子だったとしたら
、スターリング嬢が、それを知らずにショパンを慕っているとしたなら、こんな不幸な人生はどこにあるというのか!ショパンは自分を引きずり回す姉妹を恨みながらも、スターリング姉妹を哀れみ、神にスターリング姉妹を守ってくださいと頼んだ。
 「とにかく、こんなことを書くのは時間の無駄だ......私の気持ちは君ならわかるだろう。
だから私は結婚など 頭にないのだ。
私が気になるのは母や姉妹のことです。」
スターリング姉妹のことはこれ以上考えられないショパン、事実がどうあれ、
ショパンにとって苦労を共にし気持ちを分かち合って来た家族はポーランドの家族だけなのだ。
「神様は私の家族の心を幸せな思いでいつも満たしてくださいます。
しかし、その間、私の仕事はどうなったのでしょう。
そして、私の心はどこに消えてしまったのだろう。[削除されている]
家ではどんな歌を歌うのか、ほとんど覚えていない。」ショパンの言葉は削除された部分があり不明な箇所がある。
ショパンはポーランドの家族と歌った歌すら
思い出す気力がないとグシマーワに語る…。
自分の作曲家としての時間や心はスコットランドの夕日と共に沈み消え去ってしまったショパン…。ショパンの作曲への情熱は暗闇へ沈んでいってしまうのか…。
「この世界は、まるで
私は物事を忘れ、力がない。私は回復するやいなやを、少しづつ沈んでゆく。
私はあなたに文句を言うつもりはありませんが、あなたは説明を求めたので、私はそうします。」
これはショパンはグシマーワの書簡への返事なのだ。このグシマーワの書簡は現在しないが、ショパンはグシマーワに身の振り方を指図され、そしてショパンの意思を書いて来るように言われたのだ。ショパンは
いつでも嘘がつけない人だった。死ぬ思いをしたパルマには今更行きたくないし、
同性愛者のルッカ殿下の慰め者にもなりたくない、スターリング嬢は顔を見る度に双子かと疑うため結婚は無理…今更、ショパンは誰とも結婚はする気はない、自分は死を待つだけだから…
ショパンは、まるで何もかも諦めだかのようにグシマーワに返事を書いたのだ。
しかし、自分の本心をぶちまけたショパンはなぜだか静かな気分になっていた…
「私はブライダルベッドより棺桶に近いということをはっきりさせただけです。
私の心はかなり落ち着いています。
[言葉は黒く塗りつぶされ、唯一判読できるのは諦めたという文字]」
本当にショパンは何もかも諦めていたのか、自分で言葉を削除したのか、それとも…改ざんなのか…それも不明だ。グシマーワにまた書簡をくださいと頼んだショパンは、グシマーワを疑いながらも信じるしかなかった。


スターリング姉妹の写真、
横顔がスターリング嬢、正面顔は姉のキャサリン・アースキン夫人
スターリング嬢と子供のスケッチ画
ジャン(「ジェーン」)ウィルヘルミナ・スターリング
(1804年7月15日– 1859年2月6)
スターリングは、パースシャーのダンブレンに近いキッペンロスハウスで、キッペンダヴィーのスコットランドの貴族だったジョン・スターリングの13人目の末っ子だった。
母は彼女が12の時に、父は彼女が16の時に死亡している。その遺産で彼女は裕福に暮らした。その後、彼女は未亡人となった姉のキャサリン・アースキン夫人(29歳)のもとに引き取られる。彼女は美人で30回人以上から求婚されたと言われている。1826年からは、姉とともにスコットランドとパリで社交生活を送り、音楽や芸術だけでなく、刑務所改革、ホメオパシー薬、プロテスタント運動などの活動に関わった。
夜行者、オペアンプ。55は、フレデリック・✳︎ショパンの2つの夜想曲作品55は、1842年から1844年の間に作曲され、1844年8月に出版された。ショパンはこの曲をスターリング嬢に献呈した。
1848年2月16日のパリのサルプレイエルの部屋でポーランド難民とチャルトルスキ侯爵を招きサロンコンサート行った。このコンサートでスターリング嬢は部屋を準備し、ショパンのために花を部屋中に飾った。しかし、ショパンは舟歌の途中までしか演奏しなかった。ショパンはパリでのコンサートの最後になった。その後、3月に別のコンサートの計画をしていたが2月革命でショパンのコンサートの生計は失われた。その後、
彼女はショパンを1848年にイギリスとスコットランドへ招きました。
スターリング嬢はショパンを慕っていたが、ショパンはスターリング嬢からの求婚を断った。ショパンの死後、彼女が喪に服す姿を見た人々は 「ショパンの未亡人」と噂した。

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Pianist由美子UNO が綴るショパンの情景

Pianist由美子UNOの感性が描くショパンの人生の旅のロマン このブログはPianist由美子UNOが全て手作業で行っており ショパンの物語の文章と画像はオリジナルです日々の出来事なども時折り皆様にお届けしております お楽しみいただけましたら幸いです